「2011年度JRA馬事文化賞」も受賞した作家・島田明宏氏が武豊騎手と初めて出会ったのは90年4月だった。以降、20年以上にわたり、公私でつきあうようになる。その“心友”島田氏が「誰も書かなかった 武豊 決断」を上梓。そこには、武豊の真実の姿が描かれていた──。
この春、武豊騎手を描いた『誰も書かなかった 武豊 決断』を上梓することになった。彼に関する私の本としては、97年の『「武豊」の瞬間』以来17年ぶりの書き下ろしとなる。
17年前の武は、ありとあらゆる記録を更新し、翌年にはダービー初制覇を遂げるなど、強烈な上昇気流に乗っていた。当時28歳。また、97年というのは、JRAの売上げが4兆円を突破した、競馬ブームのピークと言える年でもあった。
その後、17年という時間が、武と競馬をめぐる状況を大きく変容させた。
武は30代前半、アメリカとフランスに騎乗ベースを移し、再び日本に腰を据えた03年、「不可能」と言われていた年間200勝を達成。04年には「僕はこういう馬を探していた」と言ったディープインパクトに出会い、翌05年、無敗のまま三冠を制した。
その後もトップをひた走っていたのだが、10年春の落馬負傷を機に、それまでのようには勝てなくなってしまう。怪我による4カ月のブランクがあった10年は69勝、11年はデビュー以来最低の64勝、そして12年はワースト記録を更新する56勝。騎乗馬の質が下がったため結果が出せず、さらに馬の質が下がるという悪循環にはまってしまった。
「天才」の名をほしいままにしてきた武が初めて味わう「どん底」だった。そのとき彼は、苦しみながら、何を考え、どう競馬に向き合っていたのだろうか。
私が知る限り、彼自身、「不振」と口にするようになったのは、11年の終わりごろか、12年になってからの夏に話したときには、「最近、勝ち鞍が減っているけど‥‥」
と水を向けても、
「そうかな。周りに言われるほど、ぼく自身は調子が悪いとは思っていないんですけどね」
と苦笑するだけだった。
実は、こうして、いいことも悪いこともすべて均等に受け入れ、ひとつの悪いことだけを大きくとらないよう自身をコントロールするのが「武豊流」なのである。そうして舞い上がりもせず、落ち込みもせずにいる「楽観力」とでも言うべきもので様々な局面を乗り切ってきたのだが、それが12年の秋ごろから変わってきた。
それまではおそらく、
──馬に乗って競走するという、自分のやることは20代のころや200勝していたころと変わらないのだから、同じことを同じように頑張ればいい。
と考えていたはずだ。
それが一歩進んで、「勝てなくなった自分」を客観視したうえで受け入れ、
──このままではいけない。変わらなくては。
と思い始めた。
自然にそうなったわけではなく、確かなきっかけがあった。
それは、トレイルブレイザーで臨んだ11月3日のブリーダーズカップターフ、である。武本人は、
「変わってきたのはブリーダーズカップのころから」
という言い方をしているが、明らかに、アメリカで彼はいろいろなものを取り戻し、再浮上のきっかけをつかんだ。そのあたりの経緯や、私とのやり取りなどをこの本に書き込んだ。
再浮上のきっかけをつかんだことにより、それまでの自分がいい状態ではなかったことを認める気になった、という部分も当然あっただろう。
騎手というのは、自分の腕力や脚力を競うわけではないので、自分だけの力で勝ち鞍を伸ばすことはできない。質のいい騎乗依頼をしてくれる馬主や調教師などの「人」と、それ以上に、ともに戦う「馬」とともに、浮上していくことになる。
きっかけをつかんだ彼の前に、大きく羽ばたくチャンスをプレゼントしてくれる、才能豊かな若駒が現れた。そう、キズナである。
◆作家 島田明宏