武とキズナのコンビ初戦となったラジオNIKKEI杯2歳Sは3着、次走の弥生賞は5着と、なかなか結果が出なかった。初戦は馬が完成途上だったので力を出せなかった。弥生賞の敗因に関しては、
「上品に乗ろうとしすぎ、結果として失敗した」
と語っている。前を射程に入れながら、いつでもスパートできるよう綺麗に乗ろうとしたら、十分な進路を確保することができず不完全燃焼に終わった。
だが、この敗戦でかえって腹を括ることができた。
──周囲に合わせることなど気にせず、とにかく、キズナが走りやすいようにしてやればいい。
そうして、コンビ3戦目、昨年3月23日の毎日杯を迎えた。「前半はゆっくり行き、直線でスパートする」という、シンプルではあるが、キズナが最も力を出せる形で走らせたら、凄まじい末脚で突き抜けた。
武が不振に陥るきっかけとなった落馬事故に見舞われたのも、その3年前、10年の毎日杯だった。
「毎日杯」にまとわりついていた嫌なものを、キズナが目の覚めるような末脚で、すべて吹き飛ばしてくれた。
次走の京都新聞杯は、ダービーに向けての最終チェックといった位置づけになった。自分らしい走り=最強の走り、であることを、武とキズナは互いに確かめ合った。
そして、5月26日の第80回日本ダービー。ここでも自分の競馬に徹し、鮮やかな差し切り勝ちをおさめた。
「ぼくは帰ってきました」
スタンド前のお立ち台で、武は力強く言った。
そこに帰ってくる過程で年間200勝を楽に超えていたころの自分のVTRを見て、今の自分とどこが違うのか考えたり、トレーニングに理学療法士の指導をとり入れたり、フォームを微調整したりと、試行錯誤を繰り返した。
1センチでも前に出るために、日本で初めてエアロフォームを着用したのは、ほかならぬ彼だった。どれだけ効果があるか定かではなくても、やれることはすべてやる。「見えないところでもがき続け、涼しい顔で勝つ」というのが、彼が20代のころから持ち続けている勝負師としての美学である。彼は、苦しみながら、人知れずもがき続けていた。
その結果、13年は、トーセンラーでマイルCSを勝ち、GI通算100勝という金字塔を打ち立てるなど「らしさ」を取り戻し、年間97勝をマークした。まだリーディングに返り咲いてないので「完全復活」ではないにせよ、「復活」したことは間違いない。
急激に騎乗馬の質が上がったわけではない。「もし、彼の騎乗馬にほかの騎手が乗ったら、年間50勝もできないのではないか」というラインナップだ。にもかかわらず、100勝近く挙げたのはなぜか。当たり前だが、腕がいいからだ。あり得ないタラレバだが、おそらく今の彼なら、10年や11年の騎乗馬でもこのくらい勝っていただろう。あのころの彼が「武豊」らしいパフォーマンスを発揮できなかったのは、10年の落馬で骨折した左肩に痛みが残っていたからだと思う。
単純な帰結になってしまうのだが、どうしてまた武が勝つようになったのか訊かれたら、私はいつもこう答えている。
「肩の痛みがなくなって、自分らしい騎乗ができるようになったからでしょう」
彼が10代、20代のころにのし上がったのも、同じ手法だった。ほかの騎手では折り合えなかったり、動かせなかった馬で次々と結果を出してきたからだ。
今、彼は、その作業を、一から地道にやり直しているのである。
◆作家 島田明宏