渡辺勘兵衛という人物がいる。石田三成の配下の渡辺勘兵衛とは別人で「槍の勘兵衛」と呼ばれた武将だ。通称が勘兵衛で、渡辺了という。
この渡辺勘兵衛は、転職4回の経歴を持っている。最近の若者は終身雇用を考えず、キャリアを積み、より高い地位、給料を求めて転職を繰り返す。だが、かつての日本のサラリーマンは、新卒で入社した企業で定年を迎えるのが当たり前だった。
中国の「史記 田単列伝」に「忠臣は二君に使えず」という一説がある。紫主従関係を重んじる武士の世界では一度、主君に対して家来になる誓約をした以上は、他に主君は持たないのが普通だった。死んだ主人のあとを追って自死するケースも多かった。そんな時代に転職を繰り返した、勘兵衛の経歴は異色だ。
永禄5年(1562年)、近江浅井郡の土豪・渡辺高の子に生まれた勘兵衛は最初、浅井氏重臣・阿閉(あつじ)貞征の小姓となり、16歳で初陣を果たす。
その後は数々の手柄を立て「槍の勘兵衛」と呼ばれるまでになった。織田信長から直接、働きを褒められたこともあったという。
だが阿閉家は、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀方につき、山崎の戦いで敗れて滅亡。勘兵衛は浪人となった。働いていた企業が倒産したため、再就職先を探すのは仕方がないかもしれない。
天正10年(1582年)頃から豊臣秀吉に仕えると、翌年、秀吉の養子・秀勝付きを命じられ、2000石を与えられた。秀勝の死去後は再び浪人となったが、「槍の勘兵衛」は引く手あまた。すぐに関白・豊臣秀次の家老・中村一氏に、3000石で招かれている。
天正18年(1590年)、小田原征伐で活躍し、秀吉から「最低でも1万石」と称賛された。だが、中村一氏からの恩賞は少なく、6000石に留まったことで不満が爆発。またまた浪人の道を選んだ。
その後、秀吉の五奉行の一人、増田長盛に400石で使えたが、ヘッドハンティングはあとを絶たなかった。慶長6年(1601年)、藤堂高虎に2万石で招かれ、これに応じたのである。
これが勘兵衛の出世の頂点だった。大阪夏の陣の戦い方を巡って、主君・高虎と対立。藤堂家を飛び出し任官運動をしたが、高虎が他家に仕官をさせないように「奉公構え」のお触れを出したため、二度と主君に使えることはできず。79歳まで徳川義直らに捨て扶持(援助)されて生きたという。
(道嶋慶)