生きた妊婦の腹を引き裂くなど悪逆非道を尽くし「殺生関白」と呼ばれたのが、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次である。宮部継潤、通称・善祥坊という武将、大名は一時、秀次の養父だった。
室町時代末期から安土桃山時代にかけて活躍した継潤は近江・浅井郡宮部村の小豪族の出身で、桓武平氏の末裔・土肥真舜の子として生まれた。その後、地元の湯次神社の僧侶・宮部善祥坊清潤の養子となり、比叡山で修行を重ねた後、正式な僧侶となった。
比叡山の僧侶といえば、その学識の高さは並大抵ではない反面、武芸にも優れている。源義経の家来として有名な武蔵坊弁慶は元々、比叡山で修行を積んだ僧侶だ。
武芸の鍛錬も積んだ継潤はその後、仏に仕える道を断念して故郷の宮部に戻り、戦国大名・浅井長政の家臣となったのである。長政は織田信長が溺愛する妹・お市の方の最初の夫で、後に信長に反旗を翻した人物だ。
長政の配下で頭角を現した継潤は、時代の流れを読むのに長けていた。
浅井家と織田家が戦闘状態となるや信長側に寝返り、元亀三年(1572年)には羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉の与力となった。その上、秀吉の甥・秀次を養子にもらい受け、秀吉の親族に。
秀次はその後、秀吉の勘気に触れて切腹を命じられたが、継潤はある意味、ついていた。
浅井家の滅亡後は秀次との養子縁組が解消され、アカの他人になっていた。秀次との関係がその後も続いていれば、災いが及んだ可能性があったからである。
学識もあり武芸にも優れていた継潤は、その後もトントン拍子に出世していく。天正八年(1580年)頃には、信長から但馬豊岡城主として、2万石を与えられている。さらに、天正十年(1582年)に起きた本能寺の変後、大権力者となった秀吉から鳥取城主として取り立てられ、5万石を領する大名となった。
九州征伐後は因幡・但馬国内で加増され、文禄2年(1593年)には、因幡巨濃郡蒲生郷荒井村に因幡銀山を開山。秀吉から銀山経営を任され、財務官僚としても活躍している。
伏見城の普請に参加した文禄3年(1594年)には知行8万1000石に膨れ上がり、一介の修行僧では考えられない大出世を遂げた。隠居後も御伽衆として秀吉の相談相手を務め、慶長四年(1599年)、天寿を全うしたという。
(道嶋慶)