分不相応な専制政治を行い、その死後、住んでいた屋敷まで地獄の沈んだとされる人物がいる。元寇(げんこう)に立ち向かった鎌倉幕府8代執権北条時宗、そして息子の9代執権北条貞時の御家人(みうちびと)だった平頼綱だ。
現在、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送され、御家人たちの争いが描かれている。だが実質、幕府を動かしていたのは御家人ではなく、御案内人だ。
御案内人は御家人の執事で、今でいう政治家の私設秘書。頼綱は北条氏の嫡流である得宗家の御家人、執事にすぎなかったが、北条時宗が専制体制を強めるにつれて、強大な権力を手にした。まさに虎の威を借るキツネだ。
4代以降、単なるお飾りになった将軍家の屋敷に比べ、得宗家の屋形内に設けられた頼綱の宿所は室内に金銀をちりばめ、そこで働く人たちは高価な綾や錦を身にまとっていたという。
弘安7年(1284年)、時宗が死去すると、有力御家人・安達泰盛との対立が激化。弘安8年(1285年)の「霜月騒動」で安達泰盛一族を滅ぼして時宗の子・貞時を懐柔し、内管領という役職を得て、さらに幕府内外で絶大な権勢を振るようになった。日蓮は当時、書状の中で頼綱のことを「天下の棟梁」と評しているほどだ。
霜月騒動の1年後から約7年間は、公文所を自らの意のままに運営し、管理を任されている強力な軍事力を背景に、寄合衆も支配した。
その絶対的な権力は、執権もしのいだ。当時の文章には「今は貞時の時代ではないようになっている」との記述も残っている。
だが、あまりの傍若無人な振る舞いに、執権・北条貞時も黙っていられなくなる。正応6年(1293年)、鎌倉大地震の混乱に乗じて貞時が軍勢を率い、経師ヶ谷にある頼綱の自邸を急襲。頼綱は自害し、一族は滅ぼされた。「平禅門の乱」である。
頼綱の専制政治による恐怖は、死後100年近く経っても語り継がれた。室町時代に禅僧・義堂周信が熱海の温泉で、地元の僧から聞いた話として「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。ここには彼の邸があり、彼が殺されると建物は地中に沈んだ。人々は生きながら地獄に落ちていったと語り合い、今でも平左衛門地獄と呼んでいる」と日記に記している。
(道嶋慶)