源頼朝や徳川家康は、征夷大将軍という役職で知られている。
元々は、東北地方の蝦夷を討伐するために臨時に置かれたもので、初めて任命されたのは奈良末期の大伴弟麻呂だ。
源頼朝が征夷大将軍を名乗った以降若干の空白期間はあったが、この役職は675年間にわたり、武士の棟梁として、事実上の日本の最高権力者が任じられるものだった。
江戸時代には15人の征夷大将軍がいる。だが、初代家康、三代家光、犬公方と呼ばれた五代綱吉、人気時代劇「暴れん坊将軍」で有名な八代吉宗、そして最後の将軍・慶喜の名前を挙げるのが関の山かもしれない。
15人もいれば、様々な人間がいる。特に11代・家斉は、図抜けて破天荒だ。
在位期間は日本の征夷大将軍の中でも最長の50年。2位の吉宗でも約29年1カ月というから、異例の長さだ。
家斉は天明七年(1787年)から天保八年(1837年)まで、その職にとどまり続けた。内大臣、右大臣、左大臣、太政大臣を順番に歴任した唯一の武家だが、目立った功績はない。
有名なのは、幕府の財政を立て直すため「寛政の改革」を行った陸奥白河藩主の松平定信を、老中首座に任命したことぐらいだろう。
家斉が歴史に名を残しているのは、その妻と愛妾の人数、そしてもうけた子供の人数があまりに膨大だからだ。特定されるだけで妻、愛妾の数は16人といわれているが、一説には側室は40人以上もいたという。また、男子26人、女子27人いたとされる子供も、実は55人だったとの話もある。
成年まで生存した子供は約半数だったが、その大半を大名家に養子もしくは正妻として送り出した。送り出した先には多額の金銭や領地を「持参金」代わりに渡し、本来の家の格より高い官位も与えたという。これが財政破綻に拍車をかけたのは間違いない。
それを解消すべく、貨幣改悪などを行ったため物価高騰を招き、天保八年(1837年)には大阪で「大塩平八郎の乱」が勃発。呼応するかのように「生田万の乱」なども起こり、幕藩体制の崩壊のきっかけとなった。
家斉は同年、将軍の座を四男・家慶に譲ったが、その後も「大御所」として実権を握り続けた。
だが、最期は実に寂しいものだった。天保12年(1837年)、69歳でこの世を去ったが、放置されたまま息を引き取ったという。その墓所は上野寛永寺にある。
(道嶋慶)