羽生が多用する横歩取りについて、屋敷九段が解説する。
「後手番が誘導する、相居飛車で自陣の歩を取らせる戦法です。互いに玉の囲いが不安定な状態で戦局が進んでいくので、飛車、角、桂馬を動かす派手な空中戦になりやすい特徴があります。ただし近年は、青野照市九段(69)が考案した『青野流』などの横歩取り対策の影響で下火にはなりつつあります」
昨今の将棋界は、コンピュータ将棋ソフトを用いた事前研究が主流。ものの数秒で数億通りの手をしらみつぶしに計算して、最善手を導く「AI」によって序盤から中盤の定跡化が進んだ。その流れの中で、かねてから対策が確立されていた横歩取りは「対AI」が相手となれば逆に有効だという。羽生世代の1人である先崎学九段が語る。
「タイトル戦で採用されることの多い『角換わり腰掛け銀』などの戦型と比べて、AIでの研究がやりにくい性質があります。横歩取りは戦型のタイプとして先の広がりが無数にあるため、AIも精査しにくいのでしょう。形勢を表す評価値が100~200ほどマイナスに振れてしまうので、最近はわざわざ戦型に選ぶ棋士も少ない印象を受けます。そんな状況で戦型に選択されたら、虚をつかれたと面食らう棋士もいるかもしれませんね」
まさにトレンドに逆行する“AI破壊”の1手。一方で、その境地に辿り着くまでには、天才なりの紆余曲折が見え隠れしていた。
「昨年度の羽生さんの不調の裏にはAIへの迎合がありました。先の棋士人生を見越してAIを研究に取り入れたそうですが、どうもしっくりこなかったみたいです。ある程度のリスクを承知で続けていましたが、あまりにも負けが込んでしまった。数時間悩み抜いて導いた手を簡単に否定してしまうAIに、半信半疑になったんだとか。その比重を減らして、従来の対局相手の棋譜を並べて地道に研究する方法に回帰。羽生さんなりの“断捨離”が功を奏したようです」(将棋ライター)
そんなデジタルデトックスは将棋以外にも表れているようで、
「オフの日は、ソファに座ってぼんやり遠くを眺めながら1~2時間過ごしているらしい。その間の動作は、片手でペットの犬とウサギを愛でるぐらいのもの。束の間の癒やし時間で脳みそを回復させて、長い対局に備えているといいます」(将棋ライター)
このリフレッシュ方法には、同世代の屋敷九段もうなずくばかり。
「年を重ねるごとに、長時間集中するのがキツくなります。順位戦なら6時間、王将のリーグ戦で持ち時間4時間はとにかく長い消耗戦の側面がある。私も何も考えずにボーっとする時間を設けるようにしています。50歳を過ぎると、本当の意味で“休み”が次局の研究以上に大事な要素になるんです」
ベテランならではの兵法があるわけだ。