あの落合博満氏はなんと、長嶋一茂のパチンコの師匠だった。
現在はタレントとしてワイドショーで大活躍し、政治から芸能まで幅広くコメントしている一茂だが、プロ野球選手になった当時は、今以上に浮世離れしていた。
ヤクルトに入団し、愛車ソアラを購入した際、報道陣から「ローン、組んだの?」と質問され「ローンって何ですか」と答え、ア然とさせている。
当時の野球選手といえば、競馬やパチンコをたしなむ人も多かった。競馬好きが高じて馬主になった大魔神・佐々木主浩氏などの例もある。
ところが一茂の場合、競馬どころか、若手選手が暇つぶしでやっていたパチンコさえ知らなかった。そのパチンコに初めて連れ出したのが、落合氏だったのだ。
1992年の自主トレ期間中のことだ。この時、中日の落合氏は家族連れで西伊豆の田子町にある友人・五木ひろしの別荘を借り受けて、自主トレを行っていた。前年、落合氏は中日の4番として37本塁打を放ち、2年連続で本塁打王に輝く。再び、三冠王を狙っていた。
その落合氏に電撃入門したのが、ヤクルトの一茂だったのだ。バット1本と身の回り品を詰めたバッグ持参で訪れた一茂を、落合氏は近所の小学校のグラウンドに連れ出し、4日間にわたって指導した。
その間、寝泊まりも食事も一緒。落合氏は食事を大事にすることで有名だ。信子夫人が用意した鍋を囲みながら、栄養面や野球に対する心構えなどを教えたと伝わっている。
それだけではない。社会勉強の一環として、一茂をパチンコ店に連れて行ったのだ。当時の流行は7を3つ揃える、いわゆるフィーバー台。ビギナーズラックで大当たりを引いた一茂は、初めての体験に戸惑いながらも大喜びしたという。
その年の一茂は風邪を引き、米国ユマキャンプの初日からリタイア。野村克也監督の構想から外れて、ドジャース参加の1Aベロビーチに野球留学した。
オフには巨人へ金銭トレードされ、落合氏の門を叩くことはなくなった。だがその後、落合氏とは巨人でチームメートになるのだから、人生とは面白いものだ。
(阿部勝彦)