古来、海で働く漁師たちは、海岸沿いで暮らしていた。漁具などの運搬や、漁に出るのに便利だからである。しかも三陸などの入り江には平地が少なく、海岸線の平坦な地に住まざるをえなかった事情もある。
しかし時代が代わり、自動車で海岸や岸壁に行くことが可能になると、津波に飲まれる危険性が高い海岸線に住む必要もなくなった。また、ブルドーザーなどの重機によって山を削り、高台に宅地を造成できるようにもなった。
そうすれば岩手や宮城、福島で現在も工事を続け、無駄と批判されている防潮堤も、必要のない箇所が多くなるはずである。そもそも東日本大震災時に20メートルの津波が襲った地域に、十数メートルの防潮堤を建設したところで、波は越えてくる。それを無視して防潮堤は建設され続けている。小学生でも分かる計算だが、「津波が来た時に住民が逃げる時間を稼げるから」と、行政は防潮堤建設の住民説明会で説明しているのだから、アキレてしまう。行政は100年かかろうと高台移転を推し進めるべきであり、そうすれば海の景観を遮るコンクリートの壁は消えることになるのだ。
国の税金が投入されているのだから、国民はもっと巨費を投じる防潮堤建設に目を向けるべきであろう。
「稲むらの火」によって日本国民に知られるようになった津波の被害と防災だが、それが国連で世界津波の日に制定されたのは、前回の記事で書いた通り、2015年12月のことである。しかし、東日本大震災から4年後に11月5日に制定されたことには、どうにも納得できない気持ちが残る。
実はこれを推し進めたのは、この広村(現・広川町)がある和歌山3区選出の衆院議員、自民党の二階俊博元幹事長だった。国際的に津波被害・防災を訴える日として日本政府も後押しし、津波の日が制定されたのちに、二階氏も国連で演説をしている。
だが当然ながら、大きな疑問が持ち上がってきた。安政南海地震が起きたのは1854年11月5日となっているが、なんとこれは旧暦である。世界中で通用しない旧暦を記念日に制定するなど、あり得るのだろうか。
世界中で共有しているのは西暦であり、ここだけ旧暦を使っていること自体がおかしいのである。では、安政南海地震が起きたのは、西暦ではいつなのか。それは1854年12月24日のことだった。
そう、クリスマス・イブだ。いや、それでは埋もれてしまって全く目立たない。これはまずい。そのように忖度した結果の11月5日なのだろう。