東京・豊島区東池袋、サンシャイン60ビルからそう遠くない所にあったのが、東池袋大勝軒だった。オンボロな建物の1階がラーメンの聖地とファンに呼ばれ、常に行列が絶えなかった、あの名店である。
「特製もりそば」が名物で、丼一杯に盛られた冷たい麺を熱い汁につけて食べるスタイル。麺の量は260グラムもあり、誰もが満腹を感じることも人気の秘密だった。
ややこってりしているが、深みのある濃いスープはクセになり、リピーターが続出した。
その厨房でいつもニコニコしてしたマスターの山岸一雄氏(写真)は「ラーメンの神様」と称されたものである。
毎年4月の第一週を迎えると思い出すのが、このマスターだ。2015年4月1日に80歳で亡くなった。桜の花が散っているのを見ながら、護国寺で行われた7日の通夜、8日の告別式に足を運んだものである。
長野県出身の山岸氏は中学卒業後に上京し、中野駅近くの親戚の中華料理屋などで修行を積み、独立した1961年にこの地で開店した。奥さんとその妹で店を切り盛りしていたが、弟子は取っていなかった。
奥さんが52歳で亡くなった後、喪失感に襲われ、店は7カ月も休業したままだった。店先の休業告知の紙に「いつ開くんですか」「再開を楽しみにしています」というような書き込みがあったのを見て、再開を決意する。
「ラーメン店を開きたいのですが、教えてもらえませんか」
電話で問い合わせてきた者に対しても、懇切丁寧に教えることは珍しくなかった。弟子になりたい者を拒むことはせず、レシピを教えることも厭わなかった。
ある時、関西で大勝軒がオープンしていたので、入ってみた。つけ麺を頼んだが、マスターの東池袋大勝軒とは大きく味が異なっており、3分の1も食べられず、残してしまった。
「つけ麺って、慣れてないんでしょ。これが東京では流行っているんですよ」
会計の際に女将がそう言う。いやいや、何から何まで違いますから…腹の中でそう言っていた。
「マスター、とんでもない店に行きましたよ。あんな店が大勝軒って、マイナスイメージになるんじゃないですか」
後日、マスターに関西のお店のことをこぼした。
「いろいろなのがいてねぇ。2日しか修行しないで、その後に『大勝軒で修行した』としている店もあるし、『1週間で店を出せるように教えて下さい』なんて言う者もいるんだよ。でもさ、それぞれにいろんな事情があるから断れないんです。そんなにヒドい味だったの? 困ったな…」
マスターは教えを請う者に対し、一円も要求しない。他の有名なラーメン店では、独立する弟子から「のれん代」として数百万円を要求するのに、彼は開店祝いとして祝儀を送るほど。これも神様と呼ばれる所以なのだ。
つけ麺はラーメンとともに、日本では誰もが知る食べ物となった。それは間違いなく、山岸氏の功績である。しかし、彼はそうではないと、きっぱり否定した。
「オレがさ、よく食べにいっていたのが『つけ麺大王』だったんだ。コレが流行っていてね。こんな組み合わせができるんだと、勉強になった。『大王』は酸っぱさが強かったけれど、ウチはそうはしなかった」
「つけ麺大王」は都内にチェーン店が急速に増えていき、一時はかなり人気があった。
「正確にはもりそばもつけ麺なんだけど、『大王』がつけ麺でファンを広げてくれたから、今の人気があると思っているんです。だから、『大王』さまさま。今は店舗が少なくなったけれど、『つけ麺大王』には足を向けて寝られないねぇ」
桜吹雪を眺めると、マスターの笑顔を思い出すのだ。