NHKの大ヒットドラマ「あまちゃん」がBS プレミアムで再放送中だが、ドラマの「モデル」となった場所について、触れてみたい。
ドラマには主役の天野アキ(能年玲奈)が一目ぼれした、高校の先輩が登場する。アキと同じ北三陸高校の潜水土木科に通う種市浩一(福士蒼汰)である。このモデルとなった学校が、日本で唯一の潜水科がある岩手県立種市高校だ。昭和27年に県立久慈高校の分校として開設されたが、当初から全国初の潜水科が設置されており、現在でもこのような学科があるのはここだけである。
なぜそんな学科ができたのか。今から125年前の1898年に、種市町の沖合で座礁した貨物船があり、船を解体するために房州(千葉県)から4人の潜水夫がやって来た。それを手伝うべく地元の若者たちが動員されたのだが、その中に磯崎定吉という27歳の若者がいた。彼は初めて見る潜水夫に憧れて、頭領となった潜水夫に弟子入りする。非常に頭がよくて気も付く磯崎を頭領も気に入り、房州に連れて帰ってからも、潜水技術を教え続けた。日露戦争などで潜水夫の需要が高まったのを機に、地元の種市(現・洋野町)に戻って、潜水夫として独立した。
潜水夫と船上を結ぶ命綱や、空気を送るポンプ押しなど、命にかかわる仕事のために信頼できる者が必要となる。それを任せられるのは親族だけだとして、従妹親戚ら親類縁者が潜水業に従事するようになった。この地方が南部藩だったこともあり「南部もぐり」として日本中に勇名を轟かせたのだ。
現在は潜水科から海洋開発科と名称は変わったが、水中溶接などの港湾土木や橋梁建設、養殖事業などで大活躍している。長年、潜水夫として活躍した知人のD氏が打ち明けてくれた。
「本州と四国を結ぶ連絡橋でも、橋の土台造りで働きました。潜水業ははっきり言って、お金にはなります。月に軽く100万円以上は稼いでいました。しかし、体がとてもきつくて辛いんです。潜水病の怖さもあるし、深ければ深いほど、船上に戻れば酸素ボンベで体を回復させるのにも時間がかかります。私は親父が潜水夫だったので自分もそうなったわけですが、とてもとても我が子に勧められるような商売ではありません」
ヘルメットを被って潜水服に身を包み、船から海に入る潜水夫には、命綱とポンプで酸素が送られる仕組みになっている。丸いヘルメットだけで約20キロの重量。そして両足の靴も約20キロの重さである。そのほか、全部合わせると80キロ近く。これで海の中で作業をするのだから、絶対的に体力が重要となる。
「私は30歳になった時、橋梁工事などはできないと断りました。今は養殖事業程度の簡単な潜水作業をたまにするだけです」(D氏)
昭和30年代には全国から潜水夫の希望者が種市高校に来た時代もあったというが、現在は定員割れが続いている。レインボーブリッジや東京湾アクアラインなども、潜水夫の働きがあったからこそ完成した。日本人はもう、このような危険と隣り合わせの職業には就かなくなるのかもしれない。
(深山渓)