江戸末期から明治初頭に、美人すぎる殺人犯がいた。毒婦と呼ばれ、小説や映画でも描かれた夜嵐おきぬこと、原田きぬだ。弘化年間(1844~47年)頃、三浦半島にある城ヶ島の漁師の娘として生まれたが、16歳で両親と死別。その頃、江戸へ出て芸妓となり「時尾張屋」で鎌倉お春と名乗って、働き始めた。
その美貌で、お春は玉の輿に乗る。下野・鳥山藩3万石の領主・大久保佐渡守に見初められ、名を花代と改めて側室となり、安政四年(1857年)には、世継ぎの春吉を産んだのだ。
だが、佐渡守が44歳で死去すると、運命が一変する。当時の慣例で寡婦となったきぬは、名前を「真月院」と改め、仏門に入るよう強制されたのだ。自ら望んで仏の道を選んだわけではないため、そんな生活でいつしかうつ状態に。気分転換のため、箱根へと転地療養に出かけることになった。
この箱根で出会ったのが、日本橋の呉服店・紀伊国屋の息子で「今業平」と呼ばれた、イケメンの角太郎だった。即座に恋に落ちた2人だったが、許されるわけがない。
大久保家の耳に入り、同家から追放されてしまう。その後、角太郎とも疎遠となって芸妓に戻り、今度は小林金平という裕福な金貸しの目にとまると明治二年(1869年)に身請けされた。
欲しいものは何でも与えられる生活を手に入れたが、心は満たされない。いつしか嵐璃鶴(りかく)という年下のイケメン歌舞伎役者にのめり込み、結婚を夢見るようになっていく。
そうなると、障害は旦那である小林金平の存在だ。金平を排除するため、きぬは殺鼠剤で毒殺してしまった。
逮捕され、裁判の末に告げられた判決は斬首だった。だが、その時に妊娠しており、出産を待って数小塚原刑場で刑が執行。その後3日間、さらし首になったという。
璃鶴には不義密通罪が適用され懲役3年となったが、出所後は逆に話題となり、人気役者になったというから、やるせない話だ。
なお、夜嵐の異名は、処刑の際に詠んだとされる辞世「夜嵐のさめて跡なし花の夢」からきている。
(道嶋慶)