昭和の終わりから平成の始まりにかけ、宮沢りえほど世の中を騒がせたアイドルはいない。後藤久美子と並ぶ美少女としてブレイクしながら、まさかの「ふんどしルックのカレンダー」(89年)を発売し、そして200万部を売った「ヘアヌード写真集」(91年)と続く。
このいずれもステージママとして名をはせた“りえママ”こと、宮沢光子社長の仕掛けであったが、批判も多かった。まだ20歳にも満たない娘のお尻を、さらにヘアを披露させる。しかも、十分にトップアイドルであったがゆえに、やり過ぎではないかと糾弾されたのだ。
さらに92年、誰もが驚いた貴花田(現在は貴乃花親方)との婚約騒動。わずか2カ月で解消となった裏には「りえママが泥酔して貴を罵倒したため」と報道された。若貴の母親である藤田紀子の過去をなじったというのだ。
真相はともかく、これを機に「一卵性母娘」と呼ばれたりえと、りえママの間にもすきま風が吹く。一時は自殺未遂報道や拒食症疑惑が飛び交うほどりえの生活は荒れ、所属事務所の社長ではあったが、りえママが表舞台に出ることもほとんどなくなった。
あれから20年あまり‥‥宮沢光子は9月23日、肝腫瘍で65年の生涯を閉じる。
「生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えてもらいました」
りえは気丈にコメントしている。婚約破棄から立ち直ったりえは、今や日本を代表する女優に成長した。もし、あのまま大横綱、そして親方となった貴乃花と結婚していたら「おかみさん」として日陰に暮らしていたはずだ。
自身が汚名を浴びても娘の将来を思う‥‥騒動から20年後に、ステージママの凄味を証明したことになる。