プライバシー重視の現在とは異なり、昭和や平成の時代には冠婚葬祭の際、その全てで記者会見を開く律儀な芸能人は少なくなかった。ただ、恋愛や結婚などは質問するこちらも聞きやすいが、葬儀の直後となると、言葉を慎重に選ばなければならない。
生前お世話になった人々に対する「お礼のご挨拶の場」が設けられたものの、さすがにまだ早すぎたのでは、との印象が拭えなかったのが、夫・愛川欽也の死後、うつみ宮土理が東京・目黒の「キンケロ・シアター」で行った、痛々しすぎる記者会見だ。
愛川が肺ガンのため80歳の生涯を閉じたのは、2015年4月15日だ。以降、遺骨と2人きりで時を過ごしたといううつみが1カ月ぶりに姿を見せるとあって、5月10日、会見場には100人を超える報道陣が集まっていた。
激ヤセした姿で現れたうつみは、憔悴しきった表情でこう語った。
「いまだ信じられなくて…。心の中に大きな穴が開いてしまいました。その穴を埋め尽くせないまま、この場に座っております。愛川とは毎日毎日笑い合って、1日を過ごしておりました。こんなに人生が悲しく、寂しくて、愛おしくて、一緒に天国に行ってしまいたいと何度も何度も思いました。闘病中は24時間、手を握りしめていましたが、その握り方がだんだん弱くなって…。そして15日の早朝、天国に旅立ってしまいました」
その瞬間を思い出したのだろう、むせび泣く彼女に報道陣から「最期の様子は?」という定番の質問が飛ぶ。すると踵を返したうつみは、
「そういうことは言えますか、私が…。悲しすぎて、そんな質問は酷です」
そして報道陣との緊迫したやりとりが続いていく。
「なぜ入院させなかったのか」
「当たり前だからです」
「愛川さん本人の意思ですか」
「何も聞いてません。病院に行ったら治るんですか。私の隣が好きってわかっていたから」
「愛川さんが亡くなった後、何を心の支えにしていくのか」
「私に支えがないと思ってらっしゃるんですか。亡くなってるんですよ。それって、そういう質問ができるって、幸せな方ですね。そういう悲しさを経験したことがないから、幸せですね」
そんな質疑応答が繰り返され、見かねた関係者が「もうそろそろ」と、会見を打ち切ることに。
むろん、翌日のスポーツ紙やワイドショーは、このケンカ腰ともとれる返答に対して「あんなに怒るなら、なんで会見なんか開いたのか」的なトーンであふれたが、おそらくは、心の整理がつかないまま記者たちの質問に答えなければならない苛立ちもあっただろう。
だが、不思議と筆者には、その激しい苛立ちこそが、最愛の夫を突然失うという非日常を突きつけられた妻の、偽りのない心の叫び声に聞こえたのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。