沢田研二が2月14日、主演映画「土を喰らう十二ヵ月」で、第77回毎日映画コンクールの男優主演賞に輝き、表彰式にVTRで登場。
「こういう賞には縁がないと思っておりましたので、この年になってこういう賞を頂くと、まだ頑張らないといけないなと思いました」
と、喜びを語った。作家・水上勉氏の料理エッセーを原案に、長野県の山荘で暮らす作家(沢田)の姿を、自然豊かな映像とともに描く、ほのぼのとした物語だ。
沢田も御年72歳。年齢からすれば、穏やかになって何の不思議もないのだが、筆者には「ジュリー」と「ほのぼの」という言葉がなかなか結びつかない。というのも、若かりし頃の沢田は、それはもう激しかったからだ。
筆者が初めて沢田を取材したのは、80年代中盤。場所は当時住んでいた世田谷区の自宅前だった。渡辺プロからの独立問題が持ち上がり、それを直接尋ねるため、自宅前で帰りを待っていた。
実は沢田は自宅にいたらしいのだが、出てくるなり私が乗った車のドアを開け、取材手帳を取り上げると「汚いことするなよ!」とぐしゃり。「何するんですか!」。それが沢田と初対面で交わした最初の会話である。
以降、幾度となく話を聞きに行くことになるのだが、何を尋ねても99%無視。自叙伝「我が名は、ジュリー」出版に際しても「好きに書けば」と言うのみ。その怒りの源がどこにあったのかはわからないが、とにかく沢田の芸能マスコミに対する拒否反応は、半端でななかった。
そんな沢田の怒りが爆発した囲み会見が、85年5月18日の、成田空港でのそれだったように思う。
沢田は出演映画「MISHIMA」のキャンペーンのために出かけていたカンヌ国際映画祭から、JAL機で帰国。午前11時過ぎ、50人ほどの報道陣が待つサテライトに姿を見せると、待ち受けたカメラマンによって無数のフラッシュがたかれる。
「沢田さん、カンヌはいかがでしたか」
質問はそんな当たり障りのないものだったのだが、瞬時に表情が険しくなる。
「どうしてそんなこと聞くの? スジを通して下さい。取材はお断り」
そう言い放つと、その場を立ち去ろうとする。だが新聞、テレビは明日に出す枠を埋めなければならず、ひと言でもコメントが欲しい。しかも当時の芸能マスコミは、現在とは比べものにならないほどしつこく、矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
するとついにキレた沢田は、
「あんたはバカか。みんなで好き勝手に報道すればいいだろ」
そして某局のレポーターに詰め寄って、
「あんたたち、こんな番組作っていいの?」
なんと、公開説教まで飛び出す始末で…。
こうしてジュリーVS報道陣の、ただただ混乱を招いた、1ミリの実りもない不毛な囲み会見は終了したのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。