1987年の新日本プロレスは、長州力をはじめとするジャパン・プロレスの大半の選手がUターンしてきた。86年1月から業務提携という形で新日本マットに上がっている、前田日明らのUWFを併せた陣容は84年の選手大量離脱以前の最強軍団に戻ったと言ってもよかった。
だが新日本正規軍、UWF、長州軍の3軍団の選手たちはギクシャク。それを緩和するために、8月には軍団をシャッフルした世代闘争がスタート。藤波辰巳(現・辰爾)、前田、長州が派閥を越えて握手し、アントニオ猪木らの上の世代と戦う図式が生まれた。
しかし長続きせずに、10月19日の富士市吉原体育館で藤波と長州が仲間割れして世代闘争はあえなく終了。
そして11月19日、後楽園ホールにおけるマサ斎藤&長州&ヒロ斎藤VS前田&木戸修&高田延彦の長州軍VSUWFの6人タッグマッチで事件が起こった。
3年9カ月ぶりの長州VS前田は序盤から不穏な空気が漂い、8分過ぎに木戸をサソリ固めに決めようとする長州の背後から前田が忍び寄ると、顔面めがけてフルスイングのハイキック!
長州が右前頭洞底骨折の大ケガを負ったのだ。
試合は他の選手たちが何とか試合を成立させ、最後は長州が高田にラリアットを炸裂させて決着がついたが、長州と前田の喧嘩は試合終了後も続き、場内は騒然となった。
前田は故意ではないことを主張したが、当時の前田は、全日本での天龍源一郎の元横綱・輪島大士に対する妥協なきファイトでUWFの存在感が薄れてきたことや、新日本がUWFに対して団体契約ではなく、選手個人との契約を打診してきたことに危機感を持っていただけに、長州との戦いに気負っていたところがあったのかもしれない。
新日本は「背後からの不意打ちであり、極めて悪質」という理由で前田の無期限出場停止と自宅謹慎を発表したが、リングで起こったことはリングで解決するのがモットーの猪木が「後ろから無防備なところをやらないという暗黙のルールを破った。前田はプロレス道に外れる行為をした」と断罪したことはファンに少なからずショックを与えた。
前田は翌88年2月1日付で新日本から解雇通告を受けて同年5月12日に後楽園ホールで新生UWFを旗揚げ。その後、大UWFブームが起こることになる。
新日本、全日本プロレスに大きな影響を与えたUWFブームにはいずれ触れるとして、この87年の最終戦、12月27日の両国国技館でも事件が起こった。
この日は猪木と長州の3年4カ月ぶりの一騎打ちが組まれて1万1000人の観客を動員したが、ビートたけし率いるTPG(たけしプロレス軍団)の挑発に乗った猪木が、その場でTPGの刺客ビッグバン・ベイダーとの一騎打ちにカード変更。長州はマサ斎藤と組んで藤波&木村健吾(現・健悟)のタッグマッチになってしまった。
長州の試合が始まると「金返せ!」「やめろ!」の野次が飛び交い、試合中にもかかわらず長州がマイクを手に「納得いかないだろうが、最後まで試合をやらせてくれ」と訴える場面もあった。そしてラリアットで木村を仕留めると「猪木、出てきてくれ! 次は貴様の番だぞ!」と悲痛な叫び。
これに猪木が応えて、猪木VSベイダーの前に猪木VS長州の時間無制限1本勝負が組まれたが、猪木は鉄柱攻撃で長州の額を叩き割ると、さらにパンチを連打。見かねた長州のセコンドの馳浩がリングに躍り込んで止めに入ると、猪木の反則勝ちを告げるゴングが鳴らされた。
試合はわずか6分6秒‥‥あまりにも期待外れの内容と結果に大観衆は落胆。そこにベイダーが現れたから「帰れ!」の大合唱だ。
この時が初来日のベイダーの正体は、AWAで当時の世界王者スタン・ハンセンとの抗争で頭角を現した後にオーストリアに遠征してCWA世界ヘビー級王者になったレオン・ホワイトだが、日本ではまだ無名の存在だった。加えてTPGの刺客という設定は、当時の新日本のファンには受け入れられなかった。
猪木が無名の巨漢レスラーにパワースラムで叩きつけられ、わずか2分49秒で負けてしまったから、フラストレーションを溜めていた観客の怒りが爆発。リングには物が投げ込まれ、約3000人が居残って暴徒化した。
田中秀和リングアナが土下座して「お願いします。会場が借りられなくなります。許してください」とわびるが騒ぎが収まらず、ついには猪木が出てきて「今度こそ、皆さんの期待を絶対に裏切らない試合をやります」と呼びかけたが、その声はファンの怒号にかき消されてしまった。
前田問題での発言、TPGという発想、この両国でのカード変更や不完全燃焼の試合は、猪木の感性とファンの乖離を感じざるを得ないものだった。
再び混迷期に突入しつつある新日本の改革に乗り出したのが藤波である─。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。