1985年、遂に全日本プロレスVSジャパン・プロレスが開戦の時を迎えた。
だが、クリアすべき問題があった。長州力、アニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍団5人には、テレビ朝日との専属契約が残っていたのだ。
前年84年3月、UWFが維新軍団の引き抜きにかかった。当時は猪木のUWF移籍も囁かれており、テレビ朝日は防衛策として、猪木には知らせずに維新軍団5選手と個別に86年3月末日までの2年間の専属契約を結んだ。テレビ朝日との契約がある以上、長州ら主力5選手は全日本のリングに上がることはできても、日本テレビの「全日本プロレス中継」には86年4月まで登場できないことになる。
ジャパンの大塚直樹社長は12月24日、テレビ朝日に解決金として5000万円を支払い、さらに「本来の契約期間の86年3月末まで他のテレビ局とプロレスの試合に関する出演契約を結ばないこと」という条件を受け入れて解決。
なお、ジャパンは約束通りに日本テレビと契約しなかったが、全日本は日本テレビの放映料の10%を出演料としてジャパンに支払うことを約束した。
迎えた85年、全日本の正月は2日と3日の後楽園ホール2連戦が恒例になっていたが、この年は2~4日の3連戦。全日本所属選手に加えてジャパン13選手、国際血盟軍のラッシャー木村、鶴見五郎、剛竜馬、アポロ菅原の4選手、外国人10人が参加して1日の出場選手は40人にもなり、パンフレットに押される試合カードのスタンプもギチギチ状態になった。
3連戦の観客動員は主催者発表でいずれも超満員3500人。後楽園ホールの座席数は、フロア面のイスの設置の仕方にもよるが実数で1600人ぐらいだから、かなり水増し発表だが、消防法などお構いなしに無理やりに詰め込んでいたのは事実。まさに立錐の余地もない客入りだった。
全日本VSジャパンと謳っていても、ファンから見れば全日本VS新日本の維新軍団。ここに豪華外国人、国際血盟軍が加わっての贅沢な興行は全国各地で熱狂を生んだ。
選手たちの対抗意識も凄かった。攻めのスタイルのジャパンの選手に言わせると「全日本のプロレスはワルツだけど、こっちはビートの利いたロックだ」となるし、受けのスタイルの全日本の選手は「ジャパンの連中は試合の組み立てが滅茶苦茶で、プロレスというものをわかっていない。基本を知らないから危なくてしょうがない」と吐き捨てるという具合。スタイルの違いから試合がギクシャク。その殺伐とした空気が対抗戦の緊張感につながった。
対抗戦で一番注目されたのは72年のミュンヘン五輪に出場したジャンボ鶴田(グレコ100キロ以上級)と長州力(フリー90キロ級)の対決だが、全日本は「ジャンボと長州を同格に見られては困る」という姿勢で、鶴田自身も「僕の場合は長州だけを的に置いているわけじゃない。いろいろ敵がいる中のひとりに長州も入ってきた感覚だね」と語り、長州をカリカリさせた。
鶴田の代わりに「長州は俺の獲物だ!」と名乗りを上げたのが天龍だ。
ミュンヘン五輪代表から新日本に入団しながら、なかなか目が出なかったのが、革命戦士に変身したことで時代の寵児となった長州は、鶴田の下に甘んじていた天龍にとって希望の光だったのだ。
長州も「自分の気持ちは鶴田よりも天龍に向いている。鶴田は、俺や天龍と人間のタイプが違うのかな?燃えているんだろうけど、天龍ほど感じるものがないな」と、天龍に目を向けるようになった。
両団体の全面対抗戦が実現したのはジャパン主催による2月21日の大阪城ホール大会。これが大阪城ホールにおけるプロレスの初興行だった。
日本人選手だけによる全日本VSジャパン、全日本VS国際血盟軍、ジャパンVS国際血盟軍の対抗戦がラインナップされ、目玉になったのはジャパンVS全日本のシングル3大決戦だ。
まず76年モントリオール五輪フリー90キロ級代表&80年モスクワ五輪の幻の代表(日本が参加をボイコット)の谷津が鶴田に挑んだレスリング五輪対決。鶴田が谷津をジャンピング・ニーパットで場外に吹っ飛ばしてリングアウト勝ちして「谷津はワインと同じであと2~3年寝かせたら、いいレスラーになる」と余裕のコメントを出した。
セミでは馬場とキラー・カーンの新潟同郷のスーパーヘビー級対決が実現して、馬場がカーンの暴走を誘って反則勝ち。
メインは長州と天龍の一騎打ち。天龍がパワーボムを初公開したが、長州がエプロンでバックドロップを炸裂させる荒技でリングアウト勝ち。今でこそエプロンでの大技の攻防も珍しくないが、この長州の一発が初めてだった。天龍は今でも「あのバックドロップには恐怖を覚えたよ」と言う。この一戦から長州と天龍のライバル・ストーリーが始まった。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。