初回の世帯平均視聴率16.5%と、NHKの朝ドラ「ブギウギ」は順調なスタートを切った。趣里(33)演じるヒロインが、いかにして「ブギの女王」へと成長していくのか。視聴者の興味は尽きないが、モデルとなった笠置シヅ子の生涯をたどると、実に〝男前〟な素顔が浮き彫りになってくるのだ。
敗戦で打ちひしがれる国民を、その歌と踊りで励ました‥‥とは、よく聞く笠置評だ。が、当時の状況はそんなものではなかった。
「笠置は歌手という枠を超えて、終戦直後の暗い世の中に現れたシャーマンのような存在。それほど人々を夢中にさせたのです」
こう話すのは、昭和文化研究家の徳丸壮也氏。その熱狂は数字に表れている。1947年に発表された「東京ブギウギ」は27万枚のセールスを記録。プレーヤーが満足になかった時代では異例のヒットである。翌年の笠置が納めた所得税は200万円。音楽業界でダントツのトップだった。
この絶頂の直前、笠置を不幸が襲った。戦前から大阪松竹楽劇部の一員として活躍し、作曲家の服部良一に見いだされ、ジャズ歌手として活動していた笠置だったが、1944年に恋に落ちる。相手は吉本興業の創業者・吉本せい氏の息子である穎右氏。彼の子供を身ごもるが、せい氏の猛烈な反対にあい、結婚ができないまま、46年に穎右氏は結核でこの世を去る。以後、笠置は誰とも結婚をしておらず、まさに一本気な生涯を送った。何より恋人の死から2週間後、笠置は女児を出産。まさに、最愛の人を失い、その忘れ形見の赤子を育てながら「東京ブギウギ」を歌っていたのだ。
「その姿が、当時は『パンパン』と呼ばれた街娼から共感され、夜の蝶たちが笠置の親衛隊のようになったのです。笠置が立った日劇の舞台は有楽町にあり、そこの姉御が仲間に声をかけ、日劇の1階席の半分を買い切って、舞台を総見したとか、その姉御の最期を笠置が看取ったなど逸話は多い」(芸能記者)
だが、この時期の笠置には疑惑もある。当時は違法ではなかったヒロポン(覚醒剤)の中毒者だったという説があるのだ。笠置の死後、歌手のディック・ミネが証言したというが、
「その説を私は懐疑的に見ています。笠置は首からアルコールが入った薬瓶をぶら下げて、周囲を消毒していたほどの潔癖な人。そんな女性がクスリに手を出すでしょうか。笠置の楽屋にヒロポンのアンプルが落ちていたという話はあったそうですが、親衛隊の街娼が日劇の楽屋に出入りしていたというし、笠置を裏切る男性マネージャーがヒロポン常用者だったとも聞きます。そうした人間が使ったアンプルが落ちていただけなのでは。ヒロポン中毒だったなら、70歳まで生きることはできなかったはずです」(前出・徳丸氏)
だが、その生涯を閉じるよりも先に、1957年に笠置は歌手引退を宣言。晩年は女優に専念した。
「その際、テレビ局を回り『これまでのスターのギャラでは皆さんに使ってもらえないから、どうぞ、ギャラを下げてください』と、みずから値下げを申し出たそうです。とはいえ、テレビ局の懐メロ番組への出演依頼があっても、歌手引退後は『もう現役やおまへん』と断り、2度と人前で歌わなかった」(前出・芸能記者)
どこまでも男前な女性を今後、趣里がどう演じるのか、注目されるところだ。