元日本サッカー協会会長で現在はトップリーグ連携機構会長の川淵三郎氏が、文化勲章を受章した。
文化勲章が1937(昭和12)年2月に創設されて以来、スポーツ界からは2008年度に水泳の故・古橋廣之進さん、21年度のプロ野球・巨人長嶋茂雄終身名誉監督についで3人目。川淵氏は「古橋さんと長嶋さんは国民を熱狂させたスーパースター。私は違う。身にあまる光栄をいう言葉がぴったりだなというのが今の心境です」と感無量の表情で話した。
川淵氏はサッカー日本代表の選手として東京五輪(1964年)に出場し代表監督のキャリアもあったが、50歳までは古河電工のサラリーマンだった。自身、当時は「韓国にも勝てないし客席もガラガラで人気もない。サッカーのプロ化なんてできるわけがない」と思い「本気で古河電工の社長になってやると思った」という。そんな川淵氏が1993年にサッカーのプロ化への邁進を決意した理由は、ただひたすらに「スポーツ文化を全国に根付かせたい」という強い思いで、サッカーJリーグの創業者として奮闘してきた。
川淵氏は今回、「文化勲章が創設された時は私が生まれた2カ月後、そして今年はJリーグが誕生して30年、スポーツが文化として根付いた結果です。私はその代表としていただいた」と話している。金銭スキャンダルまみれだった東京五輪組織委員会会長のオファーがあったことで「文化勲章のリストからは外れた」との声もあったが、バスケットボールのプロ化にも尽力。Bリーグの創設で男子代表が48年ぶりに自力で五輪出場決めた原動力になった。
「サッカーだけが潤えばいいなんて、これっぽっちも思わなかった」という川淵氏の元には、
「うちの競技を助けてほしいというオファーが殺到しています」(サッカー担当記者)
という。人気が復活した男子バレーボール、ハンドボールなどスポーツ競技だけではなく、2018年には麻雀のプロスポーツ化を目指す「Mリーグ」の最高顧問に就任。「競技スポーツとして麻雀を五輪種目にしたい」と本気で取り組んでいる。
「すべて当たって砕けろの精神でやってきた。スポーツ界のためなら、なんでもやるつもりだ」と、86歳にはとても思えない情熱が今も燃え続け散る。
(小田龍司)