江戸時代後期、不可能とされる八丈島から愛の逃避行の末、島抜けを成功させた侠客がいる。佐原喜三郎だ。
本名・本郷喜三郎は文化3年に、下総国香取郡佐原村(現在の千葉県香取市佐原)の本郷武右衛門の子として生まれた。武右衛門は耕地30町歩、小作米600俵といわれた大身代の百姓だった。
金持ちのボンボンだったが、天保7年(1836年)、29歳の時に芝山(現在の千葉県山武郡芝山町)の博徒・仁三郎を殺害。逮捕されて流罪となり、天保8年(1837年)5月、八丈島に到着した。
島では虚無僧となり、物乞い同然の暮らしをしていたが、翌年、放火で流罪になっていた吉原の遊女・花鳥と遭遇。喜三郎は義太夫の名手で、花鳥は三味線が得意であったことから意気投合し、同居生活が始まったという。
やがて喜三郎が中心となって島抜け計画が進行し、花鳥も江戸の両親に会いたい一心から、この謀議に加わった。そして天保9年(1838年)7月3日、花鳥らとともに漁船を盗み出し、脱出する。
八丈島とその北にある御蔵島の間は黒潮の奔流、黒瀬川があり、多くの船が難破する難所だった。だが喜三郎の出身地・佐原には伊能忠敬の本家があり、忠敬が描かせた「伊豆七島実測図」があった。それを記憶していたのだろう。激しい時化に見舞われたが、7月9日には喜三郎と花鳥、流人1人が鹿島荒野浜に到着した。八丈島からの島抜けは25件確認されているが、成功したのはこの喜三郎たちだ。
一度は故郷・佐原に戻ったが、島抜けのウワサが伝わると江戸に向かい、浜町に潜伏する。ところが浜町でも島抜けの話が広まると、同年10月3日に捕縛された。
花鳥はのちに斬首となったが、喜三郎は子分から送られてくる金銭を賄賂としてバラまいたことが奏功し、永牢。今でいう無期刑となっている。
永牢中には「朝日逆島記」を著し、幕閣に提出したことが評価され、弘化2年(1845年)江戸十里四方追放に減刑されて釈放されたが、長年の牢暮らしで結核にかかり、39歳で死去した。
なお、ともに島抜けした流人の1人はその後も捕まっておらず、真の島抜け成功者といえる。
(道島慶)