かつて銀座のクラブで他球団の監督に直訴し、自らトレード先を決めたというプロ野球選手がいる。デニー友利だ。
1967年に沖縄県浦添市で生まれたデニーに甲子園出場経験はなかったが、1986年度ドラフト会議で大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)に1位指名されて入団。ルーキーイヤーの1987年終盤に初登板、初先発を果たすなど、大きく期待された選手だった。
だが制球力に難があり、それを解消するために1993年、投球フォームをサイドスローに変更。これで問題は解決し、1995年にはプロ入り9年目にして初勝利を挙げた。
とはいえ、あまり登板機会には恵まれず、トレードを直訴する。1996年に東尾修監督率いる西武ライオンズの一員となった。
この時、東尾監督の強い意向が働いたとされるが、実はデニーが自ら直談判した結果だった、というのがもっぱらの評判だ。当時の事情を知る球界OBが振り返る。
「東尾監督とデニーが通っていた銀座のクラブが同じだった。そこで東尾監督に会ったデニーがトレードを懇願して、移籍が実現したということですよ。そんな話は聞いたことがありませんね」
通常、トレードは両球団のフロント同士が話し合いの末、実現するケースが多い。あるいは両球団の監督同士が直接、連絡を取り合い、日の目をみることもある。他チームの監督と選手本人が直接交渉するケースは極めて稀だ。
だが、この異色のトレードは完全に吉と出た。デニーは西武に同じサイドスローの鹿取義隆、潮崎哲也がいたことがプラスに働く。中継ぎ投手としてチームに欠かせない存在となり、1998年にはリーグ連覇に大きく貢献している。
2002年オフには古巣に復帰。その後、レッドソックスのマイナーリーグや、落合博満監督が率いる中日ドラゴンズでプレーし、2007年に現役を引退している。夜の銀座には、野球選手の夢も埋まっていたようだ。
(阿部勝彦)