こんな理論派もいた。人気漫画「グラゼニ」のモデルとされている近鉄の中継ぎ左腕・清川栄治(54)は、超細密な査定資料を忍ばせて交渉に臨んだ。特に「インヘリテッド率」と呼ばれる、自分の投球で本塁に返した走者の数を前の投手が残した走者の数で割った数値を持ち出し、査定担当者を逆に感心させたものだ。
ヤクルトの館山昌平(34)も07年オフに、祖父が作ってくれた200ページにも及ぶ査定表を持ち込み、300万円の上積みに成功している。
ロッテの諸積兼司(46)は04年オフの更改で、他のBクラス球団で、自分の成績と似通った25選手の年俸一覧表を持ち込んで交渉に臨んだが、こちらは成果ゼロ。
ゴネ得派の象徴は、保留で有名な中日時代の福留孝介(38)だ。「年俸が上がらないから車が買えないじゃないか」は、有名な放言として知られる。
「変わりダネの交渉術では、フロントにクイズ形式で問題を出して給料を上げたロッテの里崎智也(39)でしょう。要求金額と差があった場合に、【1】とりあえず低い年俸から駆け引きをした、【2】他の選手とのバランスを考えた、などと選択型のクイズを出してフロントの本音を引き出し、交渉の糸口にしたんです。そうした駆け引き型としては、西武の東尾修(65)も傑作でした。86年オフ、落合博満(62)に次いで、投手としては初めて1億円プレーヤーになりましたが、その際、球団の提示額は1億円に届かない9900万円でした。東尾は『残りの100万円は自分で出すから、1億円ということにしてくれ』と懇願。結局、球団が100万円アップを認めて1億円プレーヤーが誕生しました」(スポーツ紙デスク)
かと思えば、なぜか1億円到達を「拒否」したプレーヤーもいる。「レジェンド」と言われる名左腕だ。球界OBによれば、
「当時、1億円を超えると税率が変わることもあって、『1億の名誉になんかこだわらない』と球団フロントを驚かせています」
サラリーマンと同じく、プロ野球界でも財布を握っているのは妻、という選手も少なくない。交渉の場に妻がしゃしゃり出てくるケースもあったのだ。「完全試合男」の阪急・今井雄太郎(66)は最多勝(19勝)を獲得した81年オフの契約更改で、手のひらに妻から「指令」された最低ラインの金額を書き込んで臨んだ。当時を知る球界関係者が苦笑する。
「長時間に及ぶ交渉の中で、汗で数字が消えてわからなくなり、しぶしぶサインをしたというオチがつきました」
91年にドラフト1位指名された阪神・萩原誠(42)はほとんど活躍はできなかったが、結婚後の契約更改には妻が同行。球団事務所に駐車した車の中で、作戦参謀として待機し、銭闘へのプレッシャーをかけていたという。