徳川将軍の御落胤と称した凶賊、連続強姦魔がいる。葵小僧というが、あまりの凶悪性から捕縛後、10日あまりという異例のスピードで獄門にかけられた、札付きのワルだ。
獄門というのは斬首刑の後、死体を試し斬りに使われ、その首を獄門台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにする公開処刑のことだ。財産も没収され、死体の埋葬や弔いさえも許されない重罪である。
別名は大松五郎ともいう葵小僧は、寛政3年(1791年)頃、徳川家の家紋である「葵の御紋」をつけた提灯を掲げて商家に押込強盗を行い、押込先の婦女に必ず乱暴するという凶悪な手口で、江戸中を荒らし回っていた。一説には「葵紋」付の袴を着用し、御落胤・葵丸を名乗ったこともあるという。
この葵小僧を板橋で捕縛したのが、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主人公である、火付盗賊改方の長谷川宣以(平蔵)だった。江戸時代とはいえ、死罪を命じるには通常、厳しい取調べが必要で、被害者からも供述を取らなくはいけない。
その後、死罪を命じるのは老中の役目だ。通常はその決裁に2、3年はかかる。この間に獄中死しても老中の決裁を待たなければならず、その時まで死体を塩漬けにして保管。死罪決定後、死体を打ち首や獄門にする。
ところが葵小僧の場合は捕縛後、取調べもわずか10日ほどで終わり、獄門にかけられたことになる。その理由はというと、葵小僧が取調べで、被害者にさらなる苦しみを与えるため、暴行に及んだ婦女の名前を暴露したからだった。
その数は江戸だけでなく、上方などを含めて30件余りに上っており、被害者の感情を考慮して、平蔵が独断専行で早期決着を図ったといわれている。平蔵は取調べの記録さえも残さなかったという。そのため、葵小僧についての資料はあまり残されていない。
(道嶋慶)