2人が初めて出会ったのは、この2年前、平成2年(1990年)1月16日のこと。東京・中目黒の祐天寺において執り行なわれた政治結社・日本青年社の小林楠扶会長の葬儀の席上であった。2人は会場待合室で関係者から引きあわされたのである。
面識こそなかったものの2人とも有名人、互いにその存在を知っていて、とても初めて会うという感じではなかったようだ。
「ああ、僕は昔から菅原さんのファンなんです」
と野村が言えば、
「何をおっしゃるんですか。私のほうこそ野村さんの大ファンですよ」
と文太も応じ、たちまち打ち解けあったという。
ちょうどこの時期、野村秋介が精力的に取り組んでいたのが映画製作で、同年秋には自身のプロデュースによる2・26事件を題材にした須藤久監督の「斬殺せよ──切なきもの、それは愛」(若山富三郎主演、佳那晃子、ビートたけし共演)が東映系で封切られる予定になっていた。
それが公開されて好評を博すと、野村はすぐに第2弾に取り組んだ。極道の若者の青春を描いた「撃てばかげろう」という作品で、野村が企画・原作・脚本を担当し、さらにゼネラルプロデューサーとして統括するという並々ならぬ力の入れようだった。監督が澤田幸弘、主演の元高校球児の兄貴分役を演じることになったのが、川谷拓三であった。
このとき、野村は、
「旅先で主人公と触れあう重要な役どころのゲスト役は菅原文太しかいない」
と文太に出演依頼の手紙を書いた。
その墨痕あざやかな巻紙の手紙を受けとった文太は、まず何よりも「撃てばかげろう」という詩的なタイトル(もとより野村の命名である)にシビれ、台本も読まずに即快諾し、ゲスト出演が決まったのだった。アサヒ芸能の対談でも、文太は、
「それにしても『風の会』なんて、野村さん、ネーミングがうまいよね。ほんとに戦う男であるのにもかかわらず、非常に詩的で繊細な言葉が出てくる。いっしょにやった映画の、『撃てばかげろう』でも、そのタイトルにびっくりして、ほお、こんなネーミングを考える映画人はいないなぁ、と思いながら出演させてもらったんだもん」
と述べている。
同作品での文太は広島の赤ちょうちんの親父で、背中に鷲の刺青を背負った元極道という役どころ。抗争で逃走中の主人公・清水宏次郎をかくまい、言うセリフが、
「ヤ○ザなんて何を撃ったところでかげろうよ。命だけは大切にしろ」
というもので、野村がぜひ文太に──と決めたのもうなずけるハマリ役であった。
文太もノリにノって撮影に取り組んだ。鷲の刺青は酉年生まれの文太にちなんだもので、本物の彫師とスタッフが2人がかりで4時間かけて文太の背中に描きあげたものだった。「仁義なき戦い」の広能昌三の鯉の刺青のようなオリジナリティを──と、文太とスタッフが相談して決めた絵柄だったという。
◆作家・山平重樹