ともあれ、出会ったとき、文太は57歳、野村は55歳、年齢が近いこともあって2人はたちまち意気投合し、親交を深め友情を結んでいく。
つねづね野村が口にしていたのは、
「男の友情につきあいの長短は関係なし。10年20年とつきあっても赤の他人は赤の他人のまま。一生つきあえる真の友というのは、邂逅という一瞬の魂の触れあいで巡りあえるものなのだ」
というもので、文太の思いも同様であったろう。
平成3年6月に「撃てばかげろう」が東映系で封切られ、その翌平成4年6月には、野村は政治団体「風の会」を結成し、夏の参院選比例区への出馬を表明。文太も「風の会」の推薦人として名を連ねたことは前述した通りだ。
ただ、晩年の文太の「反戦・反原発・護憲」運動にコミットした言動を見ても明らかなように、2人が思想的立場を異にするのは厳とした事実であった。文太もそのあたりのことは野村に念を押したうえでの交流であり、「風の会」の推薦人承諾であったという。
もっとも野村にしても、そんなことは少しも意に介するタイプではなく、むしろ彼には明らかに思想的立場の違う竹中労や大島渚、中上健次、筑紫哲也、遠藤誠といった友人も多かった。
文太が野村秋介に魅かれたのは、野村の闘いに次ぐ闘いの生涯を通じて一貫して変わらぬ権力・体制に対するアンチテーゼ、常に弱者の側に立つという姿勢であった。それはまさに2人の共通項であったろう。
「野村さんとの共通点と言えば、青春時代を戦中、戦後で過ごしたオレらの世代は、みんな怨念を持って生きているんだろうね。いまから思えば、亡くなる1年くらい前から、言葉の端々に自刃する気配があったような気がするね」
と、後年、文太は述べている。
選挙運動期間中、週刊朝日で「風の会」が「虱の党」とヤユされたことに端を発して、野村は朝日新聞社に代表される「第三の権力」マスコミとの闘いを、自身の最後の闘いとして決断。
平成5年夏、出獄10周年記念としての自らの戦闘記録である「ドキュメント風と拳銃──野村秋介の荒野」というビデオの製作に全面協力しリリースしたのも、すでに自決の覚悟を決めていたからであろう。
同ビデオには文太も特別出演し、
「野村さんはどういう人かって‥‥ひと言で言って、ミラーボールのような人とも言えるかな。いろんな人に対して、いろんな変化に富んだ光を照射していくというのかな‥‥それを強く感じるね」
とコメントし、野村をして、「やっぱり文ちゃんはわかってるなあ」と喜ばせた。
わずか3年強に過ぎなかった文太と野村の交流。だが、それは何にも増して濃密な時間となり、熱い魂の触れあいとなったようだ。
◆作家・山平重樹