露をだに いとふ倭の女朗花 ふるあめりかに 袖はぬらさじ
こんな句があることを知っているだろうか。文久2年(1862年)11月23日、横浜港崎(みよざき)遊廓・岩亀楼の遊女・喜遊が、外国人を客とすることを拒否。切腹して果てた際に詠んだ、辞世の句である。遺体は翌24日早朝に、神奈川奉行所の調役・杉浦竹三郎らによる出張検死後、焼却。遺骨はどこに埋められたのか、現在も不明だ。
喜遊は箕部周庵という江戸の町医者の娘で、弘化元年(1844年)生まれ。本名を喜佐子という。周庵は尊皇攘夷の志士で、文久元年(1861年)5月に起きた、水戸藩士ら14人の高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館に乱入、襲撃した事件に連座。関係者として捕縛され、医業を禁止の上、江戸追放となり、品川に移り住むことになった。
周庵が病気になったこともあり、生活は困窮。喜佐子は300両と、尊皇攘夷の志士の娘らしく「異人の客は取らない」という条件で身を売り、岩亀楼の遊女となった。
岩亀楼は異人客専門の異人館と日本人客専門の日本館の2棟があり、遊女は異人相手と日本人相手に分かれていた。そして両方の客を取ることは、神奈川奉行所によって厳しく禁じられていた。
日本館の遊女である喜遊は琴、三味線などの芸事に通じており、当初から評判が高かったという。その評判を聞きつけたアメリカ人アボット(実際はフランス人アポネ)が、喜遊に目を付ける。本来なら日本館にいる喜遊と関係を持つことは不可能だが、アボットは横須賀造船所の建設をめぐり、徳川幕府と太いパイプを持っていた。そのコネを利用し、神奈川奉行所に圧力をかけて、強引に関係を結ぼうとしたのだ。
だが、喜遊はこれを断固拒否して切腹し、自らの信念を貫いた。19歳の若さだった。
この事実は当初、秘匿されていたが、文久3年(1863年)1月13日発行の、上海の英字新聞がスクープ。世に知られることとなった。
(道嶋慶)