夫の女遊びに抗議するため、切腹して果てた女性がいる。安芸国広島藩の第5代藩主で、浅野家20代当主の浅野吉長の正妻・節姫だ。
節姫は「加賀百万石」の当主で、江戸時代前期には名君の誉れ高かった前田綱紀の次女である。延宝八年(1680年)、側室・慈雲院との間に生まれた。
節姫は安芸国広島の藩主・浅野吉長に嫁いだ。この吉長は豊臣秀吉の正妻・高台院の妹・長生院の子孫で、秀吉の姉・日秀尼の子孫。また、徳川家康と前田利家の血統も受け継ぎ、「江戸七賢人」のひとりに数えられるほどの人物だ。
だが、享保三年(1718年)、飢饉のために領内で大規模な農民一揆が勃発。吉長は事態を収拾できなくなり、自暴自棄に陥ってしまう。こんな時、家庭に安らぎがあればいいのだが、節姫はプライドが高く、しかも気が強い姉さん女房。吉長は節姫に何も相談することができないまま、女に逃げた。
ある時、お忍びで訪れた江戸の遊郭・吉原の遊女を気に入り、婚外恋人にしようとしたのである。しかも2人だ。
吉長は江戸から郷里へと戻る際、この遊女2人を同伴しようとしたから大変だ。側室さえ持つことを許していなかった節姫はブチ切れた。夫への刃傷沙汰になりそうなものだが、節姫は違っていた。なんと夫に当てつけのように、自害してしまったのだ。
しかもその方法が、女性としては前代未聞の切腹というから驚きだ。戦国時代ならいざ知らず、江戸時代ともなれば切腹は形式的になり、腹に刃を当てた瞬間、首を打ち落とされることも多くなっていた。
それが女の身で、見事に腹をかっさばいた。自身の女遊びで女房が死んでしまったのだから、さすがの吉長も「取り返しのつかないことをしてしまった」と後悔。節姫を手厚く弔い、遊女2人を遠ざけたという。
本来ならば、大スキャンダル。幕府から厳しい処分が下されても不思議ではなかったが、「急病死」と届けられ、なんとか改易や減封は免れた。げに恐ろしきは、女性の執念である。
(道嶋慶)