吉原遊郭の総(惣)名主となった庄司甚内(甚右衛門)は、謎に包まれた人物だ。江戸幕府の初期、江戸には3甚内と呼ばれる人物がいた。古着市を仕切った鳶沢甚内、大盗賊として歌舞伎にも登場してくる高坂甚内(写真は高坂甚内を祀る甚内神社)、そして庄司甚内である。
庄司甚内は天正三年(1575年)、北条家の家臣である庄司又左衛門の息子として生まれたとされている。又左衛門は豊臣秀吉の小田原攻めにより落城際、主家に殉じて切腹して果てた人物だ。本来は各地を巡り、情報収集をしており、いわば乱破=忍者の元締めのような仕事をしていた。
北条忍者といえば、風魔一族。北条家の滅亡とともに歴史に埋没していったが、伊賀、甲賀との並び称せられた忍者軍団である。その風魔一族が北条家の滅亡をきっかけに始めたのが、江戸を中心に関東を荒らし回ることだった。北条家再興の資金稼ぎや江戸の町を不安に陥れることで、幕府転覆を謀る意図もあっただろう。
彼らはいわゆる破壊工作のプロである。そのスキルを生かし、火付けや強盗、殺人など悪の限りを尽くす大盗賊団になった。この盗賊団に庄司甚内も加わっていたらしい。
風魔一族の跳梁跋扈に頭を悩ます江戸町奉行所は、同じ盗賊を生業とする高坂甚内と手を結んだ。毒をもって毒を制そうとしたのだ。蛇の道は蛇である。高坂甚内の密告により、風魔一族の頭領・小太郎は捕縛されて処刑。配下もことごとく捕らえられた。
ところが、アジトに町奉行所が踏み込んだ際、庄司甚内はたまたまその場にはおらず、逃げ延びたともいわれている。
元々、徳川家康が江戸城に入府大した際、江戸にはまだ定まった傾城(けいせい)町、今で言うピンク街がなかった。各地に数軒単位で存在するばかりだった。そのことに目を付けた庄司甚内は慶長十七年(1612年)、今の東京・麹町である道三河岸で遊女屋を開き、正式に多数の遊女屋が集まる遊郭の創設を願い出た。
そして5年後の元和三年(1617年)に浅草吉原町に遊郭の創設が許可され、庄司甚内は庄司甚右衛門として総名主に就任したのである。それ以降、子孫が代々、総名主とついでいくことになる。
(道嶋慶)