金融商品に手を出して上司に疎まれ、出世を棒に振った男が江戸時代にいた。
先日亡くなった歌舞伎の二代目中村吉右衛門の当たり役でもある、火付盗賊改役の長官、鬼の平蔵(鬼平)こと長谷川平蔵宣以だ。幼名を銕三郎という。上司は寛政の改革で有名な、老中の松平定信だ。
400石の旗本、長谷川平蔵宣雄の長男として延享二年(1745年)に生まれた。若い頃は本所二ッ目に住んでおり「本所の銕」と呼ばれ、放蕩無頼の生活を送っていたという。
明和五年(1768年)、正式に長谷川家の家督相続人となった。だが、まだその頃、父・宣雄は健在。
宣雄は優秀な人間で、火付盗賊改役の長官から、安永元年(1772年)に京都西町奉行に栄転した。定員2名の京都町奉行は、役高1500石で、役料として現米600石も支給される。配下には与力20騎と同心50人が付いた。
エリートコースに乗ったわけだが、翌安永二年(1773年)、病のため京都で死去してしまう。
そのため鬼平は、30歳で家督を相続した。ところが生来の遊び癖は治らず、妻子がいながらも遊郭へ通いつめ、父の残した遺産を全て食い潰してしまった。
それでも改心して、江戸城西の丸書院番士から書院番士頭となり、先手弓組頭、そして天明七年(1787年)には火付盗賊改方の加役となった。
一度、その職を解かれたが、すぐ復職。51歳でこの世を去る直前まで、その職にとどまった。
大盗賊・稲葉小僧の捕縛や、無宿者の更生施設である人足寄場の設置に尽力。鬼平はその運営費や探索費用を、銭相場に手を出して捻出していた。だが、その方法が、清廉潔白を自認し頭が固い定信には面白くなかった。
鬼平は火付盗賊改役の長官からの出世を望んでいた。特に役高1500石から3000石へと倍増する、江戸町奉行への転身を狙っていた。実際、町奉行の職が空席になった際には候補に名が上がったこともあったが、実現しなかった。
当時の武士が不浄な物として嫌う、銭の相場に手を出したことが主な理由だった。当時、定信が鬼平を「山師だ」として忌み嫌っていたと伝わっている。
鬼平は出世できないことを愚痴り、失意のまま晩年を過ごしたのだろう。
なお、鬼平の屋敷跡には数十年後、あの遠山の金さんが居を構えたことは、皮肉な話かもしれない(写真=長谷川平蔵と遠山の金さんの住居跡を示す看板。都営新宿線・菊川駅出口にある)。
(道嶋慶)