吉田が初めて高倉の主演映画に関わったのは「大空の無法者」(60年、東映)という作品だった。当時の東映は京都が主流であり、高倉や吉田がいた東京撮影所は日蔭の存在だった。
「当たらない映画が続いて東京撮影所は元気がない。健さんにしたって年下の中村錦之助、日活でも石原裕次郎や小林旭のほうが先に売れてしまう。あの頃の健さんの口ぐせは『明日があるから!』だったけど、歯を食いしばって自分に言い聞かせていた感じだった」
さらに女流スターとのせめぎ合いもあった。大歌手であり、東映の看板女優でもあった美空ひばりは高倉を気に入り、小林旭よりも先に「ダーリン」と呼んで相手役にたびたび指名。ただし、ピントはひばりのみに合わされ、後ろにいる高倉の顔はぼやけている。できれば出たくないというのが本音だった。
また江利チエミとの結婚後も吉田はグチを聞かされた。
「健さんの主演1本が60万円になっていたけど、それでも家に帰ればチエミは東宝で1本250万円と聞かされる。何とかなんねえかなって訴えてきたね」
そして大スターへ飛躍したのが「昭和残侠伝」や「日本侠客伝」(64年)、「網走番外地」(65年)の人気シリーズが立て続けに始まった頃である。
とりわけ「昭和残侠伝」は主題歌の「唐獅子牡丹」に乗り、風間重吉役の池部良との“道行き”で敵陣へ斬り込んでいくシーンが拍手喝采を浴びた。
池部は高倉よりひと回りも先輩の大スターだが、高倉を「健坊」と呼んでかわいがった。
「俺たちの健坊は画面に出てきた瞬間にスターなんだ。仲代達矢や宇野重吉は映画の筋が進んでいかないと輝かないだろ?」
そんな池部の褒め言葉を吉田は何度となく耳にしている。とはいえ、高倉に対して甘やかしていたわけではない。大目玉を食らわせた瞬間を吉田は目の当たりにしている。
「池部さんが肺炎にかかって無理だって言っていたのを、何とか拝み倒して『獄中の顔役』(68年)に出てもらった。ところが、健さんはコーヒー好きの朝寝坊だから遅刻グセが直らない。さすがに池部さんが『バカヤロー』と怒鳴って『俺は肺炎を押して出ているんだから健坊もちゃんと来い!』と一喝。そんなこともあって、健さんは池部さんを尊敬していました」
当時の高倉は脚本や演出に対して注文をつけるほうではなかったが、こと「昭和残侠伝」に限っては吉田に念を押す。主題歌の「唐獅子牡丹」を生かしてほしい、さらにセリフには「白いメシ」と「おふくろ」を必ず入れてほしいと言う。
「その2つのセリフで貧しい育ちであったこと、ヤ○ザになって母親にすまないと思っていることを簡潔に表現できる。自身のキャラクターを大事に考えるようになっていましたね」
俳優になって10年目に芽生えた「意識」である。