高倉の東映時代の最終作品であり、文太とも最後の共演になったのが「神戸国際ギャング」(75年)である。俊藤浩滋プロデューサーの幼なじみだった“ボンノ”こと元三代目山口組若頭補佐・菅谷政雄をモデルにしたものである。
脚本を手掛けたのは松本功である。高倉にとっては数少ない「実録路線」の作品となったが、消化不良に終わったと松本は言う。
「健さんと文ちゃんの共演もあって、宣伝にも金をかけた大作だったけど、実録映画もはざまの時期になったせいか、当たらなかったね。日活から田中登さんを監督に招いていたけど、東映の撮影所と合わなくて、やりにくかったと思う」
劇中では高倉にとって生涯で唯一と呼べるカラミもあった。絵沢萠子の顔に雑誌をかぶせて腰を振るという奇妙な場面となったが、松本は「不得手なカラミ」に苦しむ高倉をかわいそうだと思った。
またラストシーンは、高倉扮する団正人を慕うマキ(真木洋子)がおおいかぶさり、ダイナマイトで爆死するという壮絶なもの。試写で観た松本にも、後悔の念が残った。
「そもそも実録と言いながら、後半はほとんどウソっぱちの話になってしまったから。あの爆死の場面も、いやあ、やりすぎたなと思ったよ」
松本は高倉より3年ほど遅れて東映に入社し、ヒット作の「昭和残侠伝」(65年)など、多くの脚本を担当。脚本に注文をつけない高倉は、松本の目にもカッコよく映った。
さて東映には、常に「2大スターの競演」というシステムがある。前出の「昭和残侠伝」では、高倉と池部良がラストに“道行き”を決めるシーンで館内の喝采を浴びたが、異色の組み合わせとなったのが「日本ダービー 勝負」(70年)の高倉と文太である。役柄はともに騎手であるが、松本は舞台裏を明かす。
「若山富三郎さんも騎手に扮したので、本来、小柄な人がなる職業なのに、よりにもよって身長か体重が大きな人ばかり(笑)。馬に乗っているシーンでは、無理のないように見せるのが苦労しましたね」
松本は若山主演の「極道」(68年)のシリーズも数多く書いた。文太が共演することも多かったが、文太の人気が上がってくるにつれ、それぞれの見せ場を織り込むことに苦心した。
「当の若山さんも、看板スターとなっていった文ちゃんと共演するのを嫌がっていましたから」
それは高倉と文太の2大スターにも同じことが言える。2人の間に目立った確執はないものの、生涯で共演した全12作に、後世まで語り継がれる名作や名場面がほとんどない。
高倉が東映を離れる前年に「大脱獄」「神戸国際ギャング」と珍しく共演が続いたが、それでも評価は同じであった──。