高倉健の60年近い俳優人生には、いくつもの節目があった。初めて顔にドーランを塗って涙した日、扉が閉まらないほどの観客が喝采を送った日、日本最高の主演男優賞や動員記録を打ち立てた日、ハリウッドに進出した日‥‥。そんな表層的な出来事の一方で、ひそかに〈分岐点〉となった映画があった。
3億円事件の時効が迫り、第1次長嶋巨人が球団史上初の最下位に沈んだ75年──高倉健(享年83)は、俳優として岐路に立っていた。
かつては年に10本以上の主演作が公開されたが、73年、74年ともに3本ずつと、作品を吟味するようになったという点を割り引いても激減していた。
「もう任侠映画は終わりや。鶴田浩二や高倉健の時代やない、実録で行け!」
東映の岡田茂社長(当時)がこう息巻いたように、映画界の流れは激変していた。「仁義なき戦い」(73年)に始まった実録路線もこの頃には下火となり、新たな鉱脈を探すことが急務であった。
そして生まれたのが、日本では初となる「パニック映画」の着手だった。すでにアメリカでは高層ビルの火災を描いた「タワーリング・インフェルノ」(74年)や「大地震」(74年)が大ヒットしており、これに対抗するべく、日本独自のものを作ろうとアイデアが練られた。
「これはおもろい! 絶対にこれでいけ!」
いつもは辛口の岡田社長が手放しで誉めたのは、まだ若手だった坂上順プロデューサーが出した「新幹線大爆破」(75年)という刺激的な企画。この年の3月に山陽新幹線が博多まで開通したやさきのことだ。
脚本に参加した小野竜之助は、坂上と佐藤純彌監督から20枚ほどのシノプシスを渡された。
「乗客を乗せた新幹線に仕掛けた爆弾が、ある一定の速度以下になると爆発する。爆弾を解除したいなら、莫大な身代金を払えと。その原案を見て監督とともに、新幹線の取材に走ったよ」
東映としてはオールスター大作にしようという方針で一本化。当時は「赤いシリーズ」を中心にテレビで活躍していた宇津井健を招くなど、豪華なキャストが集結。さらに“予想外の大物”が名乗りを上げた。
「こんなおもしろい映画なら、どんな役でもいいから参加したい。もちろん、犯人役でもかまわない」
誰あろう高倉健であった。スターシステムで歴史を重ねてきた東映ではあったが、さすがにこの映画に関しては事情が違った。宣伝チームのチーフとして参加した関根忠郎が明かす。
「いつもの映画よりキャストにも特撮にも予算がかかっているし、さすがの健さんと言えども、本来のギャラは出せないというのが社長判断だったんです」
そこで岡田は坂上プロデューサーに提案した。もし、通常のギャラの半分でいいなら、高倉を起用してもいいと──。
「坂上、機関車は石炭がなけりゃ走れないんだぞ」
映画のタイトルにかけたのか、おそるおそる実情を話した坂上に、高倉はそう答えた。
「それならこうしよう。ギャラは半分でいい。その代わり、映画が当たったら成功報酬のパーセンテージでどうだ?」
こうして高倉は、自身の取り分を減らしてでも、およそ経験したことのない「爆破魔」に扮する。ただし、映画の製作自体が“パニック”の様相を呈してきた──。