歴史上、無血で百姓一揆を成功させた人物がいる。幕末に信濃国伊那谷で起きた南山一揆のリーダー、小木曽猪兵衛だ。
江戸時代に起こった百姓一揆は、約3000件にも及ぶといわれている。百姓一揆はその要求が認められても、リーダーは通常、死罪になる。最も有名な人物は、下総国佐倉藩領(現・千葉県成田市)の木内惣五郎(佐倉惣五郎)だ。彼をモデルにした「佐倉義民伝」は怨霊伝説を生み、講談や歌舞伎の題材になった。彼を祀る祠や神社、寺は成田市の東勝寺「宗吾霊堂」など、全国に30カ所以上も存在している。
ところが小木曽は自身も含め、誰ひとりとして死罪になる人間を出さなかった。
文化12年(1815年)生まれの小木曽は、江戸で漢方医の浅田宗伯に学び、地元に戻ってからは本業の農業のかたわら、寺子屋を開いて「大平のお師匠様」と呼ばれるようになった。
転機は今田村など南山郷36カ所が、天領から飛び地として陸奥白河藩10万石の領地になった際に訪れた。幕府の直轄地である天領は、藩の領地より年貢が安い。ところが白河藩領になったことで、同藩郡奉行の務川忠兵衛は異国船出没のため物入りと称し、年貢を大幅にアップさせた。そのため安政2年(1855年)、小木曽らは嘆願書を提出したが、捕縛されて手鎖や入牢(じゅろう)の処分を受けてしまう。
だが、転んでもタダでは起きなかった。その後、各地の一揆を徹底的に研究。「佐倉義民伝」を講釈に仕立てて圧政に苦しむ農民の士気を鼓舞し、安政6年(1859年)、1616人を引き連れて天竜川を渡り、隣接する飯田藩領を通過。市田に置かれた白河藩の市田陣屋を目指した。この時、一揆勢は総代の北沢伴助などを中心に、規律ある行動を取ったという。
結局、飯田藩の仲介もあり「天領並みの年貢に戻せ」との要求が通って一揆勢は解散し、郡奉行の務川は罷免された。
一方、一揆は数人が1カ月の入牢で済み、死罪はゼロ。この南山一揆を無血で終わらせた小木曽は、明治22年(1889年)まで生きている。
(道嶋慶)