2000年4月、シドニー五輪選手代表選考会に出場した千葉すずは、200メートル自由形で優勝。タイムも国際水泳連盟が定めた五輪参加A標準記録を突破していた。
ところが大会後に発表された日本代表メンバー、男女合わせて計21人の中に、彼女の名前はなかった。そこで落選理由を明らかにするため、日本人として初めて、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴。代理人とともに都内で記者会見に臨んだのは、同年6月12日のことだった。提訴理由を、千葉はこう語った。
「自分が代表選手になるかどうかは大きな問題ですが、それと同じくらいに、自分のような選手を(今後)作らせたくない。今の選考方法には、実力以外になんらかの意見が入っていると思う。個人的な意見が少なからず入っているのではないかと…」
要は今回の選考には、その誰かの意見が強く反映されているというのだが、むろん、その「誰か」が、日本水泳連盟の古橋廣之進会長であることは、誰の目にも明らかだった。
両者の確執はこの時点から4年前(1996年)のアトランタ五輪に遡る。水泳チームのキャプテンだった千葉は、出発直前のインタビューでメダルについての明言を避け、ただ「楽しんできます。それだけです」と発言。メドレーリレーで9位になり予選落ちすると「9位なら11位のほうがマシ」と発言したことが物議を醸すことに。
さらに800メートルリレーでは4位入賞するも、出演したテレビ番組で「(メダル、メダルという人は)自分で泳いでみればいいんですよ」と掟破りの放言が飛び出した。アトランタから帰国後も「メダルを取るとは一度も言っていない」と語ったことで、日本水泳連盟、とりわけ古橋会長とはバチバチの関係に発展したのである。
その後、千葉は現役を引退したものの、1999年の日本選手権でカムバック。100メートル、200メートルの自由形で優勝すると、古橋氏が突然、「シドニーは少数精鋭でいく」と言い出した。
さらに4月の自由形準決勝で2位になった際、千葉が「この大会が目標じゃない」と発言したことに対し、古橋氏は「千葉排除」をほのめかす。
「チームの足を引っ張るようなヤツは連れて行かない。うぬぼれて天狗になったらオシマイ。アトランタ五輪みたいになって、勝てない」
バッサリと斬り捨てると、その翌日には千葉抜きのメンバーが発表されたのである。
となれば、千葉抜きでのチーム編成は事前に決まっていたととられても仕方がない。だが、選考基準がある以上、それを満たしていれば、代表に選ばれてしかるべきだろう。つまり千葉のCASへの提訴は、ある側面では「スポーツ選手はこうあらねばならぬ」といった古い体質に一石を投じることになったわけだ。
しかしCASは2000年8月、日本水連の選考は公正だったとして、千葉の提訴を退けた。ただ、水連が千葉に対し、事前に選考基準を明確に伝えていれば今回の提訴は起こらなかったとして、提訴費用の一部(約65万円)を千葉に支払うよう水連に通達。
確かに選考基準の明確化には一石を投じた、この裁判。それと引き換えに、両者の間にできた溝は、さらに深まる結果となったのである。
(山川敦司)