横綱昇進の最終決定権を持つ横綱審議委員会(横審)は、その条件を「大関で2場所連続優勝か、準ずる成績」と内規で記している。 だが、その内規を満たしてなお、横綱昇進を許されなかった力士がいた。
1991年の九州場所では13勝2敗で、2年ぶり2回目の幕内優勝を達成。翌92年、年明けの初場所で12勝3敗。3月の春場所でも13勝2敗で3回目の賜杯を手にした。にもかかわらず、日本相撲協会から横綱審議委員会への諮問もないまま。それが小錦だ。
小錦はハワイでスカウトされ、高砂部屋に入門。1987年5月場所後に外国人力士として初めて大関に昇進し、1989年11月場所で初優勝。3場所で2度優勝するという快挙を成し遂げたことで、本人はむろんのこと、部屋関係者の誰もが横綱昇進を確信していた。 当時、横審関係者を取材したスポーツ紙記者が、その時の様子を振り返る。
「実は3月場所前に横審委員のひとりが月刊誌に、横審の一部には外国人に対する差別がある、といった寄稿文を掲載し、物議を醸したのです。とはいえ表向き、横審では『力士が外国籍であろうが、その点で横綱昇進に障害になることはない』とのスタンスをとっていた。ところが3月場所後、出羽海理事長は横審に対し『ここ3場所は素晴らしい成績。ただ、真に強い横綱を誕生させるため、もう1場所見守ってほしい』と。委員の中からは『それじゃ、人種差別を認めたようなもんじゃないか』という厳しい意見が出たようですが、諮問がない以上、横審としては審議できない。不本意ながらも、それに従うしかなかったようです」
すると3月場所後、ある事件が起こった。それが3月22日付のニューヨーク・タイムズに掲載された、小錦の「横綱になれないのは人種差別があるからだ。もし自分が日本人だったら、とっくに上がっているはずだ」という発言だったのである。
この記事が大きな波紋を広げたことは言うまでもない。報道陣から殺到する取材に対し、記者会見を開いた小錦は、ニューヨーク・タイムズの取材に答えたのは付き人である幕下力士・高竜(ハワイ出身)だとして、
「(彼が)ボクに成り済まして電話で答えた」
と苦しい弁明。しかし、バッシングは鳴りやまず、親方からも叱咤されたことで、相撲を辞めて帰国することを決意する。
航空チケットをとろうと電話している最中、夫人に電話線を引き抜かれ、「ここで辞めたら誤解されたまま。負け犬のままでいいの?」と、涙ながらにいさめられたというエピソードが残されている。
小錦は引退後、KONISHIKI名でタレントとして活動。だが2000年、帰国を留まらせてくれた糟糠の妻とは離婚する。2004年に一般女性と再婚したが、1992年の問題発言についてはその後、いっさい語ることはなく、封印されたままである。
(山川敦司)