それはまさしく、圧倒的な強さだった。2008年8月15日、北京五輪の柔道100キロ超級。準決勝までの4試合を全て一本勝ちした石井慧(国士館大)は、決勝で当たったアブドゥロ・タングリエフ(ウズベキスタン)を指導2つの優勢勝ちで下し、金メダルを獲得。五輪での最重量級最年少王者に輝いたのである。
だが優勝直後のインタビューで、当時の全日本・斉藤仁監督を引き合いに出し、こう言った。
「オリンピックのプレッシャーなんて、斉藤先生のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりません。自分にとって、五輪は踏み台なんで」
これに柔道関係者からは「教育的指導」が与えられたのだが、
「サービス精神旺盛でビッグマウスの石井は、別のインタビューでも『優勝できたのは皆さんの応援のおかげではなく、自分の才能のおかげです』と言い放った。その自由奔放な言動に、全柔連幹部からは批判の声が出ました」(柔道関係者)
とはいえ、得意技の大内刈、体落とし、内股、寝技と、どれをとっても世界トップレベル。しかも受けが非常に強いため、まず反則ポイントを受けない。これは国際ルールでは極めて稀なことであり、そのパワーとスタミナを作り出すのが練習量の多さだった。
「石井は超が付くほどの努力家で、練習の虫であることは全柔連の誰もが認めていましたからね。だから関係者もこのビッグマウスに、痛しい痒しといったところだったようです」(スポーツ紙記者)
ところが、2008年10月、一部スポーツ紙に石井のプロ総合格闘技転向をスッパ抜かれると、出場予定だった当日の世界選手権団体を、調整不足を理由に辞退。翌日の会見では進退について明言を避けたものの、10月31日に全柔連に対し、強化指定選手辞退届を提出する。
「柔道家を辞め、プロ転向を決めました。総合格闘技のチャンピオンになれるように頑張ります」
正式にプロ転向を表明したのである。これで石井は、柔道界から事実上、永久追放されることになったのである。
とはいえ「五輪は踏み台」と公言し、今いる場所は上を目指す通過点だとする石井が、そんな処分にめげるはずもなかった。
2014年にはクロアチア出身の格闘家ミルコ・クロコップと2度対戦し、いずれも敗れたことで、強さの理由を求めて単身、クロアチアに渡る。2019年にはクロアチア国籍を取得した。
ところが今年3月、電撃引退を表明。今後は福岡を拠点に、
「お花屋さんでアルバイトをしようと思っているんです」
と語っていたが、
「実はお花屋さん以外にもやりたいことができたんです。役者と政治家なんですけど」
と、まさかの「三刀流」宣言。思い立ったが吉日、有言実行が身上の石井だが、稀代のビッグマウスが次に挑む道とは…。
(山川敦司)