テリー 阿木さんと宇崎さんと言えば、やっぱり山口百恵さんに提供した曲が、特に我々世代には有名ですけど、改めて百恵さんってどんな方だったんですか。
宇崎 結婚してから30年たった時に、2回お会いしたんですね。1回目は百恵さん1人で。2回目は三浦(友和)さんと一緒だったんです。三浦さんに我々夫婦がご馳走してもらったんですね。
テリー どこか食事に行ったんですね。
宇崎 お店へ行ったんです。その2回目からもう随分経っていて、最近はお会いしていませんが、アイドル時代のことを聞いても「覚えてません」って言うんですね。そのぐらい忙しかったんだと思いますね。深夜に家に帰ったら即寝るっていう生活を7年だか8年だかやってらしたんだろうな。だから、結婚されて、育児されて、今は息子さん2人とも自立してるじゃないですか。ああいう風情を見ると、百恵さんってほんとに思ってることを正直に言う人だし、こういう生活、こういう人生を望んでたんだろうなと。それを実現させてあげた三浦さんはすごいなと思いますね。
テリー 最近僕ね、百恵さんの歌を改めて聴いたりするんですけど、百恵さんに「この曲を歌わせたい」と感じたものって何だったんですか。
宇崎 それは酒井さん(編集部注:酒井政利。当時のCBSソニーのプロデューサー)を通じてひと月に何回か、飯を食いながら、ブレーンストーミングみたいなことがあって。ああでもないこうでもないって言ってる中で、突然「あ、こういうのどうでしょう」とか、「こういうタイトルどうでしょう」「僕こんなことがありましたけど」とかって話してるうちに、「あ、それいきましょう」みたいなことが多かったですね。常にダウン・タウン(・ブギウギ・バンド)や他のバンドをやりながら、どこか心の片隅では必ず山口百恵さんが存在していて、「どんなメロディー書いたらいいんだろう」とか、それは頭から離れなかったですね。
テリー 「プレイバックpart2」に「馬鹿にしないでよ」っていう歌詞があるじゃないですか。それまで、そんな歌ってあったんですか。
宇崎 ヒット曲にはあんまりなかったかもしれないです。
テリー だから、どっちかというと寡黙な百恵さんに、そういうことを歌わせたり、あの前に1回音が止まりますよね。そういうのも当時聴いて、すごいなと思ってました。
宇崎 あの曲は他と違って、「明日までに1曲作れ」って言われて、ほんとに時間が限られた中で作った歌詞と曲だったんですよ。だから、お互いに何かを考える暇はなくて、もう勢いと突発的な何かでパッと出ちゃったっていう感じじゃないですかね。
テリー 今、僕、鎌倉に住んでるんですよ。で、以前、阿木さんに「真っ赤なポルシェがぶつかった交差点ってどこですか」って聞いたことがあるんです。
宇崎 アハハハハハ、わかるわけないじゃないですか。
テリー いや、本人は八幡宮から真っ直ぐ行った、海にぶつかるところがあるじゃないですか。あそこだって言ってました。
宇崎 ええっ!? そうなんですか?
テリー さらに、じゃあその時に百恵さん(歌詞の主人公)が乗った車はどこから来たんだと。交差点でこすったわけだから、「たぶん相手は国道134号線から来て、八幡宮のところでこすってるんだな」とかね。
宇崎 なるほど。あそこの道、細いもんね。
テリー そうそう。だから、いつも僕はあそこを通るたびに思い出すんです。
宇崎 アハハハハハ。あ、そうですか。そんな具体的なことを。
テリー それは僕がTBSラジオでやってる番組(「昭和モーレツ天国」)で聞いたんで、阿木さんもサービスで答えてくれたのかもしれないんですけど。
宇崎 へぇ。でも、面白いな。そんな話、僕も初めて聞きましたよ。
ゲスト:宇崎竜童(うざき・りゅうどう)1946年、東京都出身。1973年、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」でデビュー。作曲家としても楽曲を提供し、妻・阿木燿子とのコンビでは山口百恵の「横須賀ストーリー」「プレイバックpart2」などを制作。また、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド解散後も「竜童組」「宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之」など多くのバンド活動を展開し、ソロでも活動。2023年にデビュー50周年を迎え、5/11(土)「デビュー50周年イヤーメモリアルコンサート」を東京国際フォーラムCホールにて、5/25(土)には「宇崎竜童50周年記念公演ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを振り返る」を横浜関内ホールにて開催。