どんな世界でも、その道で名を成し、大きな功績を残すことは並大抵のことではない。彼らの華々しい成果と、その道程での活力は、手を携えた無二のパートナーや時にはライバル同士によって、倍加した力でもたらされるのだ。人はその得がたい縁を「ゴールデンコンビ」と呼ぶ!
宇崎竜童がダウン・タウン・ブギウギ・バンドでデビューして今年で40周年。しかし、作詞家・阿木燿子とのつきあいはそれよりも長い。山口百恵をはじめ、さまざまな歌い手に楽曲を提供し、大ヒットさせてきた2人のコンビ誕生秘話を聞いた。
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──作詞家としての阿木さんを見いだしたのは宇崎さんですよね?
「そんなに大げさなもんじゃないけど(笑)。阿木と僕は同じ大学の音楽サークルにいたんですね。で、僕はアマチュアバンドをやっていて、すでに350ぐらいの曲があった。最初は自分で作詞もしていたんですが、ある時、ついに書くことがなくて困ってしまった。それで周りの連中に『作詞しないか?』と手当たりしだいに声をかけまくったんです。それこそ阿木の家族にも頼んで書いてもらいましたから(笑)」
──上がってきた阿木さんの詞は?
「やっぱり、最初からおもしろかったですよ。今でも言ってますが、ラブソングを書く時に『愛してる』と書いたら終わりだと。大事なのはそれを書かずにどう伝えるか。その意識が最初からあったのは才能かなと思いますね」
中でも印象深い歌詞は、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを一躍有名にした「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」。それはチラシの裏に鉛筆で書かれていたという。2人はすでに夫婦となっていた。
「家に帰ったらコタツの上にポンと置いてあるんですよ。で、見たらあの詞でしょ。何じゃこりゃと(笑)。どうすれば歌になるのか、いちばん悩んだのがあの曲ですね。結局、トーキング・ブルースってジャンルが洋楽にあって、それをヒントに、そのまましゃべるスタイルにしました」
──基本的には阿木さんが先に詞を書き、それに宇崎さんが曲をつける?
「ここ10年は逆になりましたけど、それまではずっとそうですね」
──であれば、曲をつけにくいから詞を変えてくれと言うこともできますが。
「ああ、でも、それは言ったことがないですね。というのも、阿木の詞で作曲に困ったのはこの1曲だけなんです。他の詞は、見た瞬間こそ『こんなことをテーマにしたのか?』と途方に暮れかかるんですが(笑)、じっと見てると、なぜか音符が浮かんでくる。それは阿木の詞を見た時にだけ起こる感覚。他の作詞家の詞では一度も経験がないですね」
──山口百恵さんに提供した曲も?
「ただ、百恵さんの楽曲は“山口百恵”という逸材がいてこそ誕生した曲だという気がします。当時は次のシングルに向けて、2~3カ月に一度ぐらい、向こうのスタッフとアイデアを出し合う会議があったのかな。で、その場でイケそうなテーマやフレーズがあれば『じゃあ、いつまでに書いてきてくれ』と発注を受けるような形だったんです。こっちもかなりおもしろがって作っていたし、変化球も投げましたが、百恵さんはどれもみごとに次々と打ち返してきた。まさに天才ですよね」
──百恵さんに曲を提供するプレッシャーは?
「ありましたよ。でも、それより阿木からのプレッシャーのほうが厳しい(笑)。ずっと一緒にやっているからこそ、僕の癖を全て把握しているし、『前と同じ曲を作るなよ』と無言で圧力をかけてきますから」
──ケンカになりません?
「なりませんよ。全ておっしゃるとおりですと(笑)。でも、そうやって常に新しいものを求められるから、阿木とはまだまだ仕事ができる。あと2000曲はイケるんじゃないかな」