「まだ18年しか生きていませんが、人生の中でいちばん勇気を出しています」
2019年8月29日、記者会見を開いたリオデジャネイロ五輪女子体操代表、宮川紗江は声を振り絞りながらも、凛とした表情でこう語った。それはまさに、女子体操界におけるパンドラの箱が開かれた瞬間だった。
コトの起こりは8月15日。宮川のコーチである速見佑斗氏が指導中に暴力行為に及んだとして、体操協会は無期限の登録抹消と、味の素トレーニングセンターでの活動停止処分を発表したことにある。
ところが小学校5年時から速見氏の指導を受けてきた彼女は、速水氏の暴力は認めたものの、パワハラと感じたことはないと主張。その上で、体操協会の「女帝」と呼ばれた塚原千恵子女子強化本部長を名指ししながら、
「私とコーチを引き放そうとした。権力を使った暴力。パワハラだと思います」
と公の場で告発したのである。スポーツ紙記者が語る。
「周知の通り、塚原氏は80年代に活躍した元女子選手。夫で協会副会長の光男氏も3大会の金メダリストとして体操界を牽引してきた元選手です。2人は『朝日生命体操クラブ』の監督と総代であると同時に、長年、体操界のドンとして君臨してきました。宮川選手の訴えによれば、彼女は2人からコーチの暴力指導を証言するよう求められ、『五輪に出られなくなる』と迫られた。さらには朝日生命体操クラブへの引き抜きを示唆されたというんですからね。夫妻への批判がタブーとされる中、体操界に激震が走ったことは言うまでもありません」
会見から一夜明けた8月30日、自宅前で報道陣に囲まれた光男氏は「(会見の内容は)全部ウソ」と言い放つ。千恵子氏もその後、代理人を通じて「発言は宮川選手の成績が振るわないことを踏まえてのこと」「宮川選手の発言にはウソが多い」といった書面を報道各社に送付して、真っ向から反論した。
しかし、18歳の決死の告発が、体操界のOBを動かした。ロス五輪金メダリストの森末慎二をはじめ、池谷幸雄、田中理恵らが宮川に賛同する。それまで「夫妻」の存在が恐ろしくて何も言えなかった元選手や関係者らも声を上げ始め、批判の連鎖は一気に広がっていった。
こうした流れを受けて、体操協会は第三者委員会を設置。結論が出るまでの間、夫妻には一時職務停止処分が下ったのである。
ところが同年12月10日、協会は臨時理事会で、夫妻に懲罰対象となるようなパワハラはなかったと認定する。一時職務停止解除を決定した。さらに翌2020年3月には協会が「決定的な証拠がない中で強化本部長の名誉、信用を著しく傷つけた疑いがある」として宮川に反省文提出を求め、この体操界を揺るがせたパワハラ論争は終結を迎えた。
真相はともあれ、意を決した告発もむなしく、パンドラの箱は再び閉じてしまったのである。
(山川敦司)