「これが本物のハリウッドか‥‥」
優作が少年のように感激の声を上げた。いや、それは高倉も同じであった。
撮影の合間に優作と高倉が監督のリドリー・スコットに誘われ、訪れたスタジオでのことだった。
そこでは名作「アラビアのロレンス」(62年、コロムビア映画)を、四半世紀ぶりに「完全版」として再編集する作業が行われていた。そのことに対する驚嘆だったと大木は言う。
「まだ監督のデヴィッド・リーンも、主演のピーター・オトゥールも生きていて、こうした人たちの協力をもとに編集を進めていく。優作は『日本ならそれだけで1本の映画が撮れるよ』とうらやましがるほど、ハリウッドは潤沢な予算をかけているんだと驚いていました。健さんも同じ思いだったようです」
この作品で優作が大きく注目され、ハリウッドでの次回作はショーン・コネリーが初監督、相手役にロバート・デ・ニーロという豪華な組み合わせで内定していた。
ただし、優作がガンで亡くなったため、ハリウッド進出がかなうことはなかった‥‥。
実は高倉も海外志向は強く、若い俳優と共演するたび「英語を習っておけ」とアドバイスする。少年の日に、福岡・若松の港から外国船にもぐり込み、密航を考えたこともある。
許されるならば日本を飛び出し、もっと多くのハリウッド作品に出たいと考えていたのだ。
高倉は高校時代から英語は堪能で、「ブラック・レイン」撮影の合間にも、ダグラスと優作の3人でいたところに、ちょっとしたやり取りがあった。
「ミスター・タカクラ、マリファナはどうだ?」
酒もタバコもやらず、九州男児の矜持を誇りとする高倉が誘いに乗るはずはない。それでも、流暢な英語で切り返す。
「ここはアメリカだからな」
笑顔で一瞬だけ身を乗り出すふりをしたという。そのことを優作から聞かされた大木が言う。
「ダグラスも優作も、健さんの茶目っ気に大はしゃぎしていたそうだよ」
高倉は現場のスタッフにまでプレゼント魔で知られるが、特に一流と認めた男には、自身の名前を入れた「ロレックス GMTマスター」を贈る。優作に用意した時計の針は、ハリウッドで活躍することを信じ、グリニッジ標準時に合わせてあった。
ただし病状は思いのほか進行し、時計を直接、渡すことはなく、没後に美由紀夫人に届けられている。
優作は役者としての出発点を「太陽にほえろ!」で石原裕次郎と、締めくくりを高倉健と過ごしたのは、幸せなことだったのではなかろうか──。