「今までにない高倉健を見せましょう」
世界のクロサワと呼ばれた黒澤明は、自慢の絵コンテを広げて高倉に熱視線を送った。それは85年に公開される「乱」(ヘラルド・エース)のクランクインを前にして、歴史的な1コマであった。
ただし、高倉に用意されたのは主役の一文字秀虎(演じたのは仲代達矢)ではなく、4番手以下になる「鉄〈くろがね〉修理」の役。主演以外のオファーは絶対に受けない高倉だが、それでも心が動いたことは事実だったと田中は言う。
「健さんは映画のオファーに対して返事が1カ月くらいかかるが、それでも、最終的には1人で決める。この時は珍しく私にも相談してきましたから」
黒澤は高倉の自宅を、あるいは帝国ホテルのラウンジを訪ね、何度もオファーを重ねる。それでも高倉の答えは出ない。
1つには盟友である降旗康男監督と「夜叉」(85年、東宝)の準備が始まっていたこと。もう1つは「海峡」(82年、東宝)で初共演を果たして以来、高倉が信頼を寄せた森繁久彌が反対したこと。
「あんた、黒澤組に行ったら壊されるぞ!」
そう言って高倉を気遣ったというのだ。奇しくも高倉と森繁は同じ11月10日が命日となったが、残念ながら共演も1度きりに終わってしまった。
結局、高倉は黒澤に正式な断りを入れ、黒澤に「難しい男だ」とつぶやかれている。
ヘラルド側のプロデューサーとして参加した原正人は、その経緯についてこう語る。
「私は途中から参加しましたが、すでに高倉さん、そして三船敏郎さんの出演はないという空気でしたね」
ただし高倉は、後に偶然「乱」のロケ場所の近くを通り、壮大なスケールに「出ておけばよかった‥‥」と後悔したことをインタビューで明かしている。
76年に東映を離れた高倉は、それから10年の間に精力的に映画に出演し、過酷な条件も何度となく引き受けている。それでも「八甲田山」は日本映画史に残る悪条件として名をとどめている。
〈食事は、昼、晩、夜食とも雪の中。定番はカレーライスか、握り飯と豚汁だったが、どちらにしろ飯は凍っていてシャリシャリと音を立てる奇妙な食感〉
亡くなる4日前の11月6日に完成し、文藝春秋に寄せられた手記の一節である。高倉いわく「人体実験ゾーン」のような雪山で三冬を過ごし、CMの仕事も断っていたため京都の土地もハワイのマンションも手放した。撮影が終わるのかという恐怖と戦い、願掛けのために日に200本も吸っていたタバコをやめた。
公開前は次々と雪山で遭難するだけの映画に客が来るのかと危ぶまれたが、25億円を超える配給収入を上げ、当時の日本記録を樹立している。
さらに「駅 STATION」も「海峡」も、いずれもが氷点下での撮影が続く‥‥。