高倉健を追うように、菅原文太もその生涯を終えた。ほぼ同世代で俳優としてのキャリアも等しく、東映の看板を支えた2人。もし違いがあるとすれば、それは〈男と女〉の演じ方だろう。私生活をどこまで反映したかはわからないが、健さんは女優に対し、なんぴとも模倣できぬ距離感を持ち続けた──。
〈あとがないんじゃ、あとが‥‥〉
菅原文太(享年81)は、出世作の「仁義なき戦い」(73年、東映)において、これから鉄砲玉となる前に、明日をも知れぬ命を女体に叩きつけている。
こうした「エロ」も豪快に演じられるのが文太の持ち味だが、高倉健(享年83)は、俳優人生のすべてにおいて“濡れ場”と無縁だった。わずかに文太との共演作「神戸国際ギャング」(75年、東映)で絵沢萌子を相手のカラミがあるが、双方ともに下着姿のまま。
さらに、この場面で俊藤浩滋プロデューサーとの仲もギクシャクし、東映を離れる一因ともなっている。
そしてフリーとなっての第1作「君よ憤怒の河を渉れ」(76年、大映)で、恋人役を演じたのが中野良子である。中野はロケ先の旅館で高倉と初めて顔を合わせ、経験したことのない空気を味わった。
「健さんは先に撮影が始まっていたこともあって、集中力がみなぎっていました。それが部屋の中に不思議な空気となって広がり、私は異次元に連れていかれたような気がして、何分間も身動きできなかったことを憶えています」
さらに中野はその晩、一睡もできなかった。すでに映画やドラマで実力派の女優と定評を得ながら、感性が張りつめるという状態を知った。
そして撮影が始まり、中野は昨日のことのようにハイライトシーンを思い出す。無実の罪で追われる身となった検事が高倉の役どころだが、それをかばう牧場の娘役が中野だった。
「森の中で私が馬を走らせ、後ろに健さんを乗せて洞窟まで疾走するんです。撮影前に何回か乗馬の訓練は受けましたが、人を乗せて走るというのは大変な設定だと思いました」
高倉の乗馬術は「網走番外地」(65年、東映)などで定評があるが、手綱をさばくのは中野だ。しかも、馬にはレフ板で強い光が当てられている。緊迫した現場だったが、撮影は1回でOKが出た。
「馬の上で、健さんとの協力関係が一瞬でできたと思いましたね。それまで光を怖がっていた馬にも、その一体感が伝わりました」
映画は79年に「追捕」と改題され、中国でも公開された。文化大革命後に外国映画で初めて上映され、8億人もの動員を記録したことで語り草となっている。
中野も中国に招聘され、その人気を肌で知った。
「健さんが原田芳雄さん扮する刑事に銃を向けられるシーンがあるんです。そこでシナリオにはないのですが、私が健さんをかばって『私を殺してからにして』と訴えるような動きをする。これには健さんも原田さんも、佐藤純彌監督も驚きながら、私の動きに合わせてくれました」
こうした場面の1つ1つが中国の教科書に載り、高倉と中野のセリフは誰もがそらんじることができる。映画自体はハードボイルドでありながら、中国においては「愛の教典」に置き換えられたのだ。