「海峡」の撮影が終わりに近づいた頃、食事会の場でプロデューサーの田中と、監督の森谷司郎は高倉に聞いた。
「次はどんな映画がいいですか?」
高倉はあながち冗談ではなく「寒いところはイヤだな」と答えている。共演していた吉永小百合も森繁久彌も、直截的な答えに笑うしかなかった。
その言葉を聞いて田中と森谷は、すかさず「無法松の一生」をやりませんかと打診した。
「主役の富島松五郎が健さんで、未亡人の良子が小百合さん。そして重蔵の役を森繁さんにお願いしたい」
古典的な名作を高倉によって復活させるというプランに場がわき立ったが、結局はお蔵入りとなった。
それは高倉宛てにファンから届いた手紙に「松五郎の役はまだ早いのでは?」と書かれてあったことも一因だったと田中は言う。さらに森谷が84年に53歳の若さで急逝したこともあり、実現に至らなかった。
そして高倉には、再び「寒いところ」では済まされない依頼が舞い込む。その名を聞いただけで芯まで冷える「南極物語」(83年、フジテレビ)だった。
南極昭和基地に取り残された15頭の樺太犬の実話をもとにしたものだが、映画化に際しては犬よりも人間の側を描くべきだとの方向性が決まる。
「それには健さんに出ていただくしかないと、フジテレビの角谷優映画部長は執念で交渉していました」
配給のヘラルド側のスタッフとして参加した原正人が言う。それでも高倉は、1年も続いた「海峡」のロケに続けて北極や南極という寒い場所へ行く気にはなれなかった。監督の蔵原惟繕にも、雪が吹きつける青森・竜飛崎に訪ねてきた角谷にも断りを入れた。
それが一変したのは82年2月13日、45歳の若さで元妻・江利チエミが不慮の死を遂げたことだった。
高倉は訃報を森繁久彌とのテレビ対談直後に聞いた。自分でもコントロールできないほど気持ちが滅入った。そして「南極物語」にもチーフプロデューサーに名を連ねていた田中に告げた。
「日本にいたくないんだ」
さらにフジテレビの角谷を呼び、すぐに北極ロケに参加する形で「南極物語」の出演を了承。1つだけ条件を出したのは、まだ人前に出たくないから、製作発表には参加しないということだった。
高倉はメインのロケ地である北極に5カ月も滞在。そして83年7月23日に公開されると、またたく間に880万人もの観客を動員。配給収入59億円は当時の最高記録であることはもちろんだが、現在でも歴代5位に君臨している。
はからずも背中を押したのは、不本意な形で離婚せざるをえなかったが、深い愛情を捧げ続けた〈江利チエミの永眠〉であった──。