1996年アトランタ五輪サッカー日本代表でキャプテンを務め、キレキレのドリブルで日本を代表するアタッカーだった前園真聖氏。五輪後は1998年のW杯フランス大会でエースとして期待されたが、代表メンバーに入ることすらできなかった。
前園氏が選手として下降線をたどったのは、1997年に横浜フリューゲルスからヴェルディ川崎(当時)に移籍してからだと言われている。期待されて川崎に移籍してきたのだが、プレーは精彩を欠き、1997年のリーグ戦は28試合の出場で5得点にとどまった。
前園氏は過去に配信されたYouTube動画の中で、その理由を「スペイン移籍ができなかったことでモチベーションを保てず、精神面の不安定さがプレーに影響した」と明かしている。
ところが別の理由を指摘する人が現れた。前園氏とアトランタ五輪の予選、本戦を通じてともにプレーし、一時期は大の親友として夜遊びに励んだ廣長優志氏である。
廣長氏は1994年から2001年までヴェルディ川崎に所属し(1998年から1999年のシーズン途中までガンバ大阪にレンタル移籍)、前園氏がチームに合流したのを近くでよく見ている。そんな廣長氏は、
「ビスマルクがいなくなった。ゾノが入ってきた。これね、ビスがいてゾノがいたら、たぶん継続で(ヴェルディは)強かった。なぜかといえば、ゾノは人を使う選手じゃない。ビスとか(横浜フリューゲルスの)ジーニョがいた時は、ゾノは使われる選手。ビスが抜けて自分が使う選手にならなきゃいけなくなった」
ビスマルクがいればヴェルディは強さをそのまま維持でき、前園氏は大いに活躍できたと訴えたのである。これを聞いた前園氏は、膝を叩いてドヤ顔で同意。
「確かにね」
廣長氏によれば、
「それと、海外に行けなかったっていうところもある」
やはりスペイン移籍失敗が大きく関与していたのだ。
スポーツに「たら」「れば」は禁物だが、もしビスマルクがヴェルディに残っていたら前園氏は活躍し、日本代表に選ばれ、欧州移籍を実現していたかもしれない。日本サッカーの歴史が大きく変わった可能性があるだけに、残念でならない。
(鈴木誠)