時代劇ではよく岡っ引きや目明かしと呼ばれるヒーローが登場する。銭形平次、人形佐七などがいい例だろう。ところが彼らは小説などで生み出されたものであり、想像上の人物だ。実在する岡っ引き、目明かしの類で史実に名を残している者はほぼ皆無と言っていい。
岡っ引きや目明かしは与力や同心などとは違って、江戸幕府から正式に給料をもらっているわけではない。与力や同心から小遣いをもらう、今でいうところの情報屋である。正式な役人ではないだけに、実際はつかんだネタでゆすりたかりを働く悪人も多かった。銭形平次のように颯爽と現れ、事件を解決した岡っ引きや目明かしはほとんどいなかったに違いない。そのため、後世にまで語り継がれた実在の岡っ引き、目明かしがいないのだろう。
また、悪人の上前をはねるような悪い岡っ引きたちはもちろん、自分たちの犯罪歴を隠す。そのため、アンチヒーロー的な人物の名前も残ってはいない。唯一、知られるのが猿の文吉だ。
大老・井伊直弼が行った安政の大獄で、九条家の家臣・島田左近や京都奉行所と組んで尊王攘夷派の取り締まりに従事。その傍ら、高利貸しの取り立てを行い、暴利を貪った。
だが、のちに尊王攘夷派で人斬り以蔵と呼ばれた土佐勤王党の岡田以蔵らに捕まって殺害され、文久2年(1862年)、三条河原にさらされている。
この文吉は元々は博打打ち、賭博師だった。文吉には養女がいた。君香と名乗り、京都一の繁華街である祇園に、芸者として出ていた。この君香が、井伊直弼と懇意にしていた九条関白家の家臣である島田左近正辰の目に止まった。
そこで文吉は養女を妾として差し出し、出世の糸口をつかんだのである。島田左近は井伊直弼の指示で、尊王攘夷派を弾圧。文吉もそれに乗っかる形となり、弾圧に加わるようになった。
ところが、島田左近が薩摩の田中新兵衛に斬殺されると京都に天誅騒ぎが巻き起こり、文吉も命を落とすことになった。
島田左近は賄賂で1万両、現在の金額にして15億円もの賄賂をため込んでいたとされ、文吉もそれなりのおこぼれにあずかったのは間違いない。文吉はその金を元手に金貸しや二条新地で妓楼を建設したとされる。
文吉を殺害する際、「斬っては刀の穢れ」と言われ、締め殺されている。そして死体は肛門から竹の棒で串刺しにされた上、亀頭には釘が打たれたという。見物人はこの死体に石を投げたというから、嫌われっぷりは異常だ。
(道嶋慶)