日本のグラビア界に革命を起こした「イエローキャブ」という帝国──。80年代から多くの人気アイドルを誕生させたが、ついにブランドが崩壊してしまった。30年を超える同社の歴史の中で、華やかなスポットライトに隠された「色香」と「バトル」の事件簿を徹底追跡!
「僕にとっては過去の話だけど、長く続いた『イエローキャブ』って名前がなくなるのは寂しいですね。もう少し頑張っても‥‥という気持ちはあるけど、今は残念という言葉に尽きます」
言葉少なに語るのは、同社の創業者であり、長らく名物社長として君臨した野田義治氏。04年に代表取締役の座を退いて以降は、新たに「サンズエンタテインメント」の会長として“古巣”を見守ってきた
実際はタレントやスタッフが「イエローキャブ」と「サンズ」の2派に枝分かれした形だが、老舗のほうが約4億円もの負債を抱えて自己破産したのである。折からのグラビア不況に加え、小池栄子(34)=B91・W59・H87=と佐藤江梨子(33)=B88・W58・H88=のほかに“稼げるタレント”が不在だったことが響いたようだ。
同社は故・堀江しのぶ(享年23)=B89・W59・H90=を第1号タレントに、80年に発足(当初は「黒澤プロモーション」名義、88年に改称)。堀江の夭折で危機に陥ったが、89年にかとうれいこ(46)=B86・W58・H84=が、翌90年に細川ふみえ(43)=B94・W59・H87=が相次いでデビューし、世に「巨乳ブーム」を巻き起こした。
そんな「繁栄」の始まりは、同時に「黒歴史」の始まりでもあった。08年、野田氏に密着したノンフィクション「巨乳をビジネスにした男」を上梓した作家・大下英治氏が言う。
「かとうは売れっ子になってからはグラビアの仕事に身が入らなくなった。いや、せっかく女優業にも進出したのに、副社長が『セリフは現場入りするまでに覚えておくように』と言っても守らなかったんです」
ついには野田社長が業を煮やし、香港で写真集を撮影中に「お前はクビだ!」とどなったこともある。もっとも、堀江亡きあとの功労者であるかとうを切るはずもなく、逆に「望む仕事」を与えた。それが歌手活動だったのだが──。
「01年にゴルファーの横尾要と結婚して引退するまでに、シングル、アルバム合わせて20枚ほどのCDをリリース。ところが、その全てが赤字でした」(大下氏)
かとうに比べ、どんなポーズの要求にも笑顔で応えていたのが細川ふみえだった。あまりにも面積が小さい「眼帯ブラ」を身につけた時の衝撃は、グラビア界に語り継がれている。かつて同社に在籍した元スタッフが言う。
「細川は自分でも公言していますが、デビュー前に五反田のキャバクラで働いていたところを、野田社長に見いだされた恩義がある。そのため、スケジュールが厳しくても、笑顔でこなしていたんです」
週刊アサヒ芸能に登場する機会も多かったが、会えばスタッフの誰もがファンになった。そんなフーミンが一変したのは97年、大道芸人のブライアン・ホルスと出会ったことだった。
「それまでのフーミンは堅実で、すでにマンションも購入していましたが、彼と出会ってからは“洗脳”の状態。フーミンの仕事に口を出すだけじゃなく、自分もテレビに出せと言いだしました。結局、貯金を切り崩すしかなくなっていった」(イエローキャブ元スタッフ)
ブライアンとの婚約は解消したが、以降も「妻帯者と結婚し、夫の破産により離婚」と、いわゆる“だめんず”状態が続いている。