「呪い」を信じるか信じないかは人それぞれ。実際に「呪い」をかけることを請け負う業者もいるそうだが…。
それは戦国時代とて同じこと。なにしろ織田信長に呪い殺されたとされる戦国武将がいるのだ。明智三羽烏のひとりで、安田国継という。
信長は天正10年(1582年)に起きた本能寺の変で、明智光秀の謀反により死亡したといわれるが、その首や亡骸を目撃した人物がいるという記録は残っていない。小説や映画、ドラマでは燃え落ちる本能寺の内部で切腹し、果てるシーンがあるが、それはフィクションであり、あくまで想像の産物だ。ただ、信長を槍で突き、行動をともにしていた小姓の森蘭丸を切り捨てたのが、安田国継だといわれている。
通称作兵後、のちに天野源右衛門と名乗ることになる国継は弘治2年(1556年)、美濃の安田村(現在の岐阜県梅津市)で生まれ、いつしか明智光秀の重臣・斎藤利三の家来となった。
本能寺の変では、寺の中深くまで入り込むことができた国継が信長に襲いかかり、槍で突き、手傷を負わせたことはわかっている。だが、ボディーガード役だった蘭丸に下腹部を槍で突かれて応戦。現代ではその容姿ばかりがクローズアップされがちだが、当時は槍の名手として評判の高かった蘭丸を討ち取っている。
ところがその隙をついて、信長の行方がわからなくなってしまったため、日本一有名な戦国武将の首を取ることができなかった。それでも堂々の一番槍だ。一番槍は勇猛果敢な武士の証として名を高めるとともに、恩賞の対象になるが、国継はツイていなかった。
明智光秀が直後の山崎の合戦で羽柴(のちの豊臣)秀吉軍に敗れて滅亡。恩賞どころか負われる身となり、名を天野源右衛門と変えて森長可、羽柴秀勝、蒲生氏郷、立花宗茂に仕えることに。そのたびに問題を起こして出仕と出奔を繰り返すようになる。最終的には、旧友で唐津藩八万石の大名になっていた寺沢広高に8000石で仕え、慶長2年(1597年)6月2日に、同地で亡くなった。まさに本能寺の変が起きた同日であり、死因は病死とされるが、頬の腫れ物を苦にしての自害だったとも。当時の人々は「信長公の祟り」と噂した。
なお、信長を突いたという槍は唐津城下の「浄泰寺」に伝わり、現在は唐津城内で見ることができる。
(道嶋慶)