阪神、ロッテなどでプロ野球歴代3位の通算320勝を挙げた小山正明氏が、4月18日に亡くなっていたことがわかった。90歳だった。
針の穴をも通すコントロールで「投げる精密機械」と言われた名投手。セ・パ両リーグで100勝を挙げた唯一の人物である。選手として阪神とロッテの優勝の原動力となっただけでなく、コーチとして数々の大投手を育て、2001年に殿堂入りしたプロ野球界のレジェンドだ。
小山氏はどんな野球人生を過ごしてきたのだろうか。昭和9年(1934年)7月28日、兵庫県明石市で生まれた小山氏は、野球では無名だった高砂高校出身。高3の秋に大阪タイガースのテストを受け、テスト生として入団した。
1年目の昭和28年(1953年)8月に初めて1軍昇格を果たすと、この年に5勝。翌昭和29年(1954年)には球団トップタイの11勝で、先発ローテに定着する。巨人に長嶋茂雄が入団した昭和33年(1958年)には24勝を挙げて、阪神のエースと呼ばれる存在に。
昭和37年(1962年)年に藤本定義が監督に就任すると、村山実とWエースとしてフル回転。セ・リーグ記録となる5試合連続完封を含む13完封、47イニング連続無失点(2006年に藤川球児現に破られるまでの球団記録)を達成し、27勝で阪神の2リーグ分裂後初の優勝に貢献して沢村賞を受賞した。
ところが翌年は14勝に終わると、オフに大毎オリオンズ(現・ロッテ)の主砲・山内一弘との「世紀のトレード」が実現する。
狭い東京球場が本拠地となり、阪神時代に王対策で覚えたパームボールで打たせて取る投球を駆使し、昭和39年(1964年)は30勝で最多勝を獲得。東京時代は単身赴任で独身寮に住んで若き日の村田兆治や木樽正明にアドバイスを送り、両者をエースに導いた。
昭和46年(1971年)に日本プロ野球史上4人目の通算300勝を達成。現役最終年となる昭和48年(1973年)は大洋に移籍して4勝だった。このシーズン限りでユニフォームを脱いだ。
4月24日の「プロ野球ニュース」(フジテレビONE)に出演した野球解説者の大矢明彦氏は、最後の年に対戦したことを述懐。コントロールの良さを絶賛し、「ユニフォーム姿がとにかく格好よかった」と振り返った。
引退後は5球団でコーチを務め、阪神コーチ時代には阪急から移籍してきたかつてのライバル・米田哲也を再生させる。同じく広島から移籍した安仁屋宗八には、最優秀防御率のタイトルとカムバック賞を獲らせた。阪神ではさらに福間納や山本和行、西武では石井丈裕らを指導。以降は解説者として活動した。
訃報に際し、巨人の長嶋茂雄終身名誉監督は「あの小山さんが…」と言葉を失うと、「コントロールの良さは天性のもの。阪神を代表する名選手でした」と振り返っている。
昭和34年(1959年)の天覧試合で小山氏から本塁打を放ったソフトバンク。王貞治球団会長も「素晴らしい回転の速球派で、打ちにくかった。きれいな回転の真っ直ぐが印象的」とコメントしている。
歴史に残る大投手の冥福を祈りたい。
(石見剣)