── その後、全日本のリングで闘うようになってからは控え室でも殴り合うなど、すごい闘いをやりましたね。
ハンセン 『喧嘩ではなくビジネスだ、と理解していてもトップに立ちたい』という気持ちがあるから、時には一線を越えてしまうこともあった。当時の闘いは、それだけ熱かった。
── 天龍は11月に引退しますが、何かメッセージはありますか?
ハンセン まず『グッドラック』。そして『ダークライト』。そう伝えれば、天龍は意味がわかるはずだから(笑)。
── 天龍本人から聞いたことがあります。英語があまり話せないジョージア時代に暗い会場で「ダークライトだな」と言ったら、ハンセンさんに「そんな英語はないぞ」と笑われたと。
ハンセン ワッハッハ! 真面目な話をすれば、天龍はすばらしいキャリアを築いたし、私にとって日本人の対戦相手としてベストだった。激しくやり合ったが、本当にリスペクトしているよ。
── 振り返ってみれば、ハンセンさんは馬場&猪木、鶴田&天龍、そして三沢らの四天王‥‥3世代と闘っていたんですね。
ハンセン 3世代のレスラーたちと歴史を作れたことはすごく誇りに思っている。90年に天龍が去ったあと、全日本は三沢たち若い世代を上に持っていかなければいけない状況になったが、その壁になって立ち塞がるのが私の仕事だった。彼らを叩き潰すのに必死だったよ。私が手加減せずに必死になって叩き潰しにかかっていたからこそ、彼らが私を乗り越えた時にファンは彼らを真のトップと認めて心からたたえたと思う。
── 作られたトップにファンは共感しませんからね。
ハンセン 彼らは上の人間がいなくなったから自動的に上に行ったのではなく、実力で壁を越えたんだ。私は馬場から何も指示されたことはない。だから私は、必死に自分のポジションを守っていただけだよ。ブロディが88年7月に亡くなり、そのあとにファンクスも去って、昔からのトップ外国人は私だけになってしまったから、そのポジションを守るために必死に闘っていた。
── 82年1月から00年10月まで18年9カ月間、全日本を主戦場にして、01年1月28日に全日本の東京ドームで引退セレモニーを行うというプロレス人生でした。
ハンセン 約27年のプロレス・キャリアのほとんどを全日本で過ごした。自分自身、ジャイアント馬場の全日本プロレスの人間だったという意識がある。特にシリアスに考えることもなく、自分のポジションを守るために毎日必死にやっていたら、いつの間にか年月が過ぎたという感覚だったが、東京ドームの引退セレモニーの時に初めて込み上げてくるものがあったよ。あの時、ファンの私に対するリスペクトと感謝をすごく感じたし、ミセス馬場(元子夫人)がすばらしいセレモニーをやってくれて、本当に感無量だった。
── 引退されたあとも来日されていますが、注目している日本人選手はいますか?
ハンセン 最近は新日本にタイトルマッチの立会人として呼ばれることが多い。そこで見た中では、今の時代のプロレスだったら棚橋(弘至)はカリスマ性があると感じる。さらに中邑(真輔)など、いいタレントがたくさんいる。もう私がリングで闘うことはないが、若い世代のレスラーには本当に頑張ってもらいたいね。