ハンセンといえば、現役時代は“ブレーキの壊れたダンプカー”とレスラー仲間からも恐れられたが、その理由は「誰にも負けたくない」という自身のプロレス哲学にあった。
「現役時代には、(今年4月に)亡くなった阿修羅・原に35針も縫う大ケガを負わせてしまったことがあった。あとで『悪かったな。わざとやったわけじゃないんだ』と謝りに行くと、『いや、これは、ビジネスのためによかったんだ』と、原は平然と言ったものだ。彼は、本当にタフな男でプロだった。思い返せば、小橋、天龍らにも椅子で殴りつけ、大ケガをさせてしまい、悪かったと思う。だが、喧嘩ではなくビジネスだと思っていても、絶対に譲れない部分がある。だから、どうしても一線を越えてまうのだ。それが闘いというものだろう」
75年9月に初来日を果たしたハンセンは、82年1月からは全日本プロレスに移籍。ブルーザー・ブロディと“超獣コンビ”を組むなどトップ外国人レスラーとして暴れまくり、ジャンボ鶴田や天龍源一郎などと死闘を繰り広げた。中でも、ジャイアント馬場はハンセンのプロレス人生を語るうえでは欠かせないキーパーソンだったと振り返る。
「全日本に移籍する際、私には、大きな心配事があった。全日本はアメリカンスタイルだが、自分には自分の作り上げたスタイルがあり、全日本に入っても変えたくなかった。それを馬場に聞くと、こう答えたのだ。『キミのスタイルが気に入ったからこそ、入ってもらいたいのだ。全日本はキミのスタイルを求めている。そのスタイルは変えないで、逆に全日本を変えてくれ』と‥‥。そのひと言が、本当にうれしかった」
ハンセンが加入したことによる影響は大きかった。全日本プロレスは、のちの「四天王プロレス」まで連なる肉体のきしむような激しい技の攻防で観客を魅了する時代に突入していく。そうした中で、馬場との闘いも熾烈を極めた。
「馬場にとって、私が全日本に来ることは、とてもハッピーだった。その反面、馬場も自分も、ポジションを確保しなければならない。だから、そこで、本気のぶつかり合いが発生した。馬場は私のボスだが、レスラーとしてしか見たことがない。『ボスだからケガをさせられない』などと考えたことは一度もない。いつも本気で叩きのめしてやろうと思っていた。そうしなかったら逆に自分がやられていた」
しかし、93年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」で初タッグを結成して以来、2人はたびたびタッグを組むようになる。その過程でハンセンは、意外な馬場の素顔を知ったという。
「自分が大好きだったからかもしれないが、控え室によく大福餅を差し入れしてくれた。一箱持ってきて、『どうぞ』という感じで渡されたこともある。あれは、不思議な感覚だった。今も来日してショッピングセンターで大福餅を目にすると、ふと馬場の笑顔を思い出してしまうんだ」